連繋と統合

 

 ここで「全身の連携」と称しているものは多くの療法で「統合(諸機能の統合)」と呼ばれるものと基本的には同じです。ただ「統合」という言葉が意味するものは「理想型」「完成形」といった終着点のような意味合いとなります。そこに至るまでには多くの段階が必要であり、その統合に至る各段階を「連携」と言い換えています。例えば隣り合う筋繊維の機能でその機能的な繋がりが途切れ、これを正すことで機能的な同調を図ったところで、これを「統合」とは言いません。これが「連携の回復」です。体というのは「悪い処」がなくても不調に陥るものです。これは体の機能の善し悪しが「相対的なものであること」に起因しますが、単純には体に「非常に活性化している部位」と「正常に活動している部位」が混在するだけで、そこに機能的な差異が生じて違和感や愁訴に繋がるものです。そこに必要なのは機能的な均一さであり、体が悪い人なら悪い人なりに、よい人ならよい人なりに機能が均一であることが理想となります(統合においては必要以上に体の局部を整えることは不要)。

 

 一般的に統合というのは体の機能の全てが理想的な状態にあることと勘違いされやすいのですが、仮にそうした状態を得られたとしても、人の体はそれを維持することは出来ません。人は体に「理想的に機能した状態での安定(理想的な健康)」を望むものですが、体にはバイオリズムといった機能の好不調が必ずあります。理想はこの好不調の波、その「触れ幅」が少ないところで安定することで、施術による身体機能の統合もここを目指すことになります。これは言ってみれば「好不調の中間」である「普通の状態」を作るということで、そこでこそ体の諸機能は「安定した統合」を得られることになります。ただしここでは「統合」というものは体自身が自ら作り出すものとし、その前段階の連携であれば施術によって作り出すことが可能であると考えます。

 

 統合とは施術による「命令」によって作られるものではありません。ある施術によって全身の諸機能を均一に整えることは可能です。これは患者さんにも「全身が整った」という印象を与えますし、確かに全身の諸機能が統合しているかのようにまとまります。しかしそれは「ある条件において整った」ということであり、体や脳が自発的に行う「統合」とは違うものです。これはどんな施術者でも体の全ての機能を均等に把握し、それを均等に整えることが出来ない以上(それは人としての能力を超えています)、そこに僅かな偏りが生じてしまうためで、その僅かな偏りゆえにその状態を長く維持することが出来ません。実際の「体自身による統合」を経験したことのある人であれば、「整う」ということの次元が違うことを理解していると思います。施術によって得られる「擬似的な統合」というのは患者さんに「体が楽」という印象を与え、体自身が行う統合は「何も感じない・普通」といった印象としかなり得ません。「体が楽」ということは、他に楽ではない何かがあるから相対的に「楽を感じる」ということであり、それは全身の諸機能が均一ではないことを意味します。