手に出来ること 1

 

 これまでの説明を前提として、「手に出来ること」というのは多くあるのだと思います。手技が「形(施術の形)」に拘るのであれば、そこで出来ることも限られると思うのですが、先にも説明したように重要なのは「どういう意図で触れているか」です。大和整體では「対象を捉まえる」という感覚を重視しますが、手が触れているのが対表であっても、その手が深部の骨や内臓を捉まえることは可能で、これは大和整體の施術では前提条件といえるものです。体の深部の組織でも自在に捉まえることができれば、理屈では「変化を与えられない対象はない」わけで、どんな組織に対しても任意の刺激を与えることができます(自分が望む変化を起こすような刺激を与える)。とはいえ、どんな変化もそれが維持しなければ意味はないわけで、そこで「施術の組み立て」が重要な意味を持つことになります。

 

 この「対象を捉まえる」という施術は、施術者のみの感覚ではなく、あくまで受け手にもそれがはっきりと分かるものであることに意味があります。目に見えない深部の組織である以上、施術者の誤った思い込みで間違ったものを対象としてしまえば意味がありません(深刻な問題が生じる可能性もある)。よってそれが受け手にもはっきりと分かるほどの精度で行われるからこそ成立する施術なのです。そして、その捉まえる対象は小さくはミリ単位の血管であり、大きくは全身そのものと、その範囲を限定しません。ただしこうした感覚は経験的に可能となるもので、例えば「肝臓への施術に慣れた施術者であれば肝臓を捉まえることが出来る」といった長年の施術経験に基づいて身に付く「手技」です(イメージや感覚の敏感さによるものではない)。大和整體の施術自体がそもそも「深部への力の伝達(直接もしくは関節的に)」を主体としているので、その経験次第で捉まえることのできる対象が次第に増えていくだけのことです(体のあらゆる部位の扱いに長ける)。

 

 大和整體の施術の目的は「体が自ら治ること」にあります。そのためには体自身が治すための障害になっているものを排除しなければならず、そのためには体の表面・深部を問わず、あらゆる部位に必要な変化を与えられることが必須となります。しかし障害を排除したからといって必ずしも体が治るとは限りませんし(誤った機能の長期化によって正しく機能する力が弱まっているなど)、施術者が治るための方向性を提示しなければいけない場合もあります。実際には「何が出来るか」よりも、「どう施術を組み立てていくか」の方が重要で、この「捉まえる」という感覚もそのために必要なほんの一部に過ぎません。ただ、この「捉まえる」ということはできなければ、施術で扱うことのできる対象そのものが大きく限定されてしまうので、まずは施術で扱える対象を増やすという意味でも大和整體では必須の技術となります。