手に出来ること 2

 

 大和整體の施術では、ある部位への施術を徹底することで、その部位を「安定状態」にまで導くということを重視します。それは「ここまでの反応がでれば簡単には戻らない」といった、施術による変化を体自身が維持しようと働くまで誘導することですが、こうした施術を重視する理由は、体はそのどこか一部でも「安定」すれば、その安定を起点として全身そのものが変化しやすくなる、ということにあります。そのため勉強会の中でも体の一カ所をずっと触れていることで「全身が変化する」といった手技が多くなっています。そもそも一度の施術の中で「Aという部位に行った施術」と「Bという部位に行った施術」、こうした個別の変化を「全身にとっての一つの変化」としてまとめるのは非常に難しいことです(全ての施術による変化を体・脳にとって一つのまとまりのある変化として認識させる)。しかし施術とはそもそも一つ目の手技の変化に二つ目の手技の変化を重ねるようにして相乗的に変化が促進していくべきものです。

 

 一つの手技による変化が起これば、次の施術はその変化を前提として考え・組み立てる必要があり、そうすることで施術全体が「一つの物語」のような一貫性を持つことになります。こうした施術は受け手の体の反応に乗っかるようなもので、その都度手技に「いまの反応に合わせた修正」を加えることが前提となります(最初の段階で全てが決まっているようなシステマチックな施術ではない)。これによって体は施術の中で時間が経てば経つほど、より強い反応を示すようになるのです(物語が盛り上がっていくように)。ただ、こうした反応を得ようとする場合、複数の手技を重ね、それらを「一つのまとまりのある変化」に統合させていくよりは、一つの手技から起こる反応を全身へと広げていく方が遥かに容易です。これは同時に「一つの手技から全身がどう反応していくか(体自身による変化の増幅の仕方)」を経験・理解することにも繋がります。施術によって体を意図した通りに反応させようとするのではなく、一つの手技をきっかけに体自身がどう自ら変化していこうとするのかを知る貴重な経験にもなるのです。

 

 施術が「体自身が治ろうとすることの補助」であるなら、手技によって全てを治すというのは逆効果です。最終的には体自身が治すからこそ、その良好な状態が長く維持できるわけで、それを外からの干渉で行ってしまうのは体から「学習・成長」の機会を奪うこととなります。手技はあくまで「きっかけ」に過ぎず、まず一つの正しい手技が行われれば、それだけで体は「動き出す」のです。あとはその動きが誤った方向に進みそうな場合は修正し、停滞している場合には後押しする。施術者が必要と考える「重要な一つの変化」を起こしてしまえば、あとの手技は体自身の反応の手助けに過ぎません。大和整體では「治してあげたい」という気持は尊重しますが、「治したい」というのは単なる施術者の傲慢だと捉えます。体が反応し始めたら、それを後追いすることこそが「体自身の治癒反応の軌跡」を知る唯一の機会であり、この経験によって「体はどういう仕組みで働いているのか」、その深淵なる理を経験的に知ることができるのです。大和整體の施術は「体に詳しい施術者が体に正しい動きを教える」のではなく、「体が動くきっかけを与え、その反応を以て体の仕組み理解する」という受動的な立場に立つことで成立する療法なのです。