施術と脳の学習

 

 施術が「分かりやすい」ということには、その施術による変化を脳が受け入れやすいということが関係します。意識・無意識に関わらず、相手に伝わりやすい施術を意識すると、それは大抵通常の施術よりも時間がかかるものです。しかしこの余分な時間は「脳が施術の変化に対して反応・学習する時間」となります。一般的な施術というのは施術者の意図した変化を引き起こすことが優先で、ある対象が望む変化をすれば次へ、また次へと矢継ぎ早に進んでいくものです(時間の制約もある)。ただそうした施術は、その変化を体が受け入れる作業を「予後」に任せることで成立しているわけで、その予後がよい方向へ進むか、悪い方向へ進むかといった方向性は図りかねます。しかし施術中に脳がそうした変化を受け入れる時間を僅かに設けることで、その施術による変化は体にとってずっと受け入れやすいものとなり、予後の安定に大きく寄与します。

 

 施術者が行った手技に対して、体が、脳がどう反応するかを見定めるには先の「体の静止」が基本であり、そこで何らかの反応が感じられることになります。この時点の「何らかの反応」が体にとって何を意味するものか(どういう方向への動きなのか)を理解する必要はありません。ただ感じていればいいだけです。しかしこうした施術を繰り返していると、ある条件下で「同じ反応」が得られるわけで、それを繰り返すことで経験的に「○○な状態の体に○○な施術を繰り返すとこうしたパターンの反応が得られる」となります。これを施術者自身の感覚で言語化することが「体の言葉を理解する」ということであり、この蓄積によって「いまの手技に対して脳がどう反応しているか」が感覚的に掴めるようになるわけです。

 

 大和整體にとって施術というのは「体との対話」であり、これは私たちが日常で行う「会話」と何ら変わりはありません。施術者の行う手技(アクション)は必ず相手にとって何らかの反応(リアクション)を生むわけで、これを敏感に感じつつ施術を行うことで、その体の状態に適した施術を選択していくことができることになります。そこで重要なのは「体の反応を逐一理解しようとしないこと(理論的な説明付けをしないこと)」であり、感じたものを感じたままに留めておくことです。体の反応というのは膨大な情報の蓄積です。その中にはいろんな反応が含まれているわけで、これを理論的に理解しようとしてしまえば、その解釈は施術者にとって都合のよい一部のみに限定されてしまいます。「分からないもの」はそれを何度も経験して、「分かる」ようになるまで捨て置けばいいのです(印象として残しておくに留める)。「感じる」ということはそこに理論的な解釈を当てはめることではなく、ただありのままを感じればそれでいいのです。