身体機能の複雑化

 

 誰もが幼い頃は比較的「単純なシステム」で体を動かしているものです。これは幼さゆえの未熟さからではなく、「本能的な動き」を優先しているためであり、動物的な動きと言い換えても構いません。これに思考が加わり、体の各パーツへの意識的な操作などが加わってくることで、複雑な動作が可能になる反面、脳にとっては制御の難しい「複雑な体の動き」になってしまうものです(武術などの習い事はこれを単純なシステムに戻すために修行・練習を行う)。これは大脳新皮質の働きの大部分が「抑制(制御)」にあることでも分かります。私たちは「本能的な動き」を意識・無意識によって抑制することで「意識的な動き」を実践しているわけで、その機能の複雑さとそれを管理する脳への膨大な負担は、それが僅かに過剰になるだけで身体の機能を容易に破綻させてしまいます。

 

 こうした身体機能の複雑さは、主に「悪癖」によって起こります。「悪癖」は本来は不必要な体のクセであり、日常の緊張などもこれに相当します。スポーツなどで体に余計な力が入っていると、ぎこちない無駄の多い動きになってしまいますが、これも癖としてその人の体に経験的に備わってしまっているものです。無意識に昔のケガや手術痕を庇ってしまう癖も同じで、悪癖は体に不要な緊張、それも偏った緊張を生み出すので、日常生活でも運動でも本来は全身に分散する筈の疲労を、一定の局部に集中させてしまいます。誰しも本来は不要な「悪癖」を多く抱えながら無駄な動きを行い、体と脳に日常的に過剰な負担をかけているものです。この悪癖による体の局部への過剰な負担は年月を重ねる度に増大していくので、それが一定の段階に達すれば自然発生的な愁訴や疾病へと繋がっていきます(加齢によるの衰えから愁訴が発生するのではなく負荷の増大と衰えのバランスの問題)。

 

 こうしたことから愁訴や疾病が生じた場合、困るのは「明確な原因」が存在しないことです。そもそも機能的に複雑になればなるほど、それを制御する脳では日常的に「誤作動」が生じ易くなります。そうした誤作動による更なる体への負担の増大に耐えきれなくなった結果が愁訴や疾病なのですから、その原因というのもさまざまな要因が折り重なっているわけです。つまり「○○を正せば治る」といった対象そのものが存在しないわけで、こうした場合はそもそもが「機能の誤りの塊のような体」なわけですから、出来るところから逐一機能を整えていくしかありません(複雑化した機能の単純化)。個人的には「整体=体を整える」という療法の意義はそもそもここにあると思うのですが、明確な施術対象が存在しない体の不調を、どう正していくか。これもやはり「○○を正せば治る」といった既存の施術の価値観とは全く異なる施術と言えるのだと思います。複雑化した体の機能は、それを施術によって徐々に単純化していくと、それがある段階に至った時点で体自身が自らその機能を単純に整理しようとする「切り替わり」が起こるものです(体をそこまで導くのが整体の役割)。