はじめに

 

 先に断っておきますが、この資料で説明したいのは「体の治し方(技法)」ではありません。体自身が治るために必要な幾つかの理屈です(施術はその媒介に過ぎない)。私たちの手技療法の多くは、施術の対象を筋肉や関節などに特定することで、その対象に効果を与えることが出来ます。そこに信頼性の高い理論があれば誰にでも実践は可能で、それを扱う施術者によっては「奇跡的な反応」も得られることでしょう。ただ施術というのは施術者と受け手の関係性の中で成立するものなので、「治し方=技法」にはいろいろな落とし穴があります。

 

 まず人は「自分の体(その感覚)を基準としてしか体の仕組みを理解し得ない」ものです。これはその人自身の体の感じ方が施術に反映されるということで、例えば体を筋肉優位に感じている人であればその人の施術には筋肉主体が適し、骨優位であれば骨主体、内臓(や循環)主体であればこれらが主体で、中には膜の感覚主体という人もいます(実際はこれらを複合した比率の問題)。自分の体のどこに焦点が合っているかによって、それと同じ対象には非常に敏感になりますし、受け手の体の反応もよくなります(同じ対象が強く反応する)。よってある人がある対象に焦点が合っている中で「優れた施術」を行うことができるとして、その感覚を前提とした理論・技法を人に伝えても同じ反応を期待することはできません(厳密に言えばその人にしかできない施術)。また、施術者自身の感覚が成長の過程で変化してしまうと、それまで劇的な効果を得られた施術が、それなりの効果にしかならないということもあります(ある感覚の時期にしか得られない反応)。

 

 私自身、自分の体の中で意識の強い「特定の対象」について、「劇的な効果」を幾度か経験しましたが、やはりそうした施術は時間の経過とともに「自分の見ているもの」が変わってしまうと、以前ほどの効果を失ってしまうものです。また、そうした自分の感覚に特化した施術というのは、指導の場で人に伝えても意味がないものです(ただの自慢話にしかならない)。特定の対象について感覚が敏感になることで「すごい施術」は生まれやすいのですが、それを経験したことで「他の対象についての理解」が深まってしまえば、もう以前と同じ感覚では施術を行えません。ただ、施術はやはり特定の対象を中心に施術していくことが多いものなので、こうした「対象ごとの好不調」を繰り返していくしかないのだと思います。

 

 私はこれを「一回りしないといけない」と説明するのですが、いろんな感覚や対象ごとに「いろんな治し方」を経験していくと、どこかで「一周回った」と原点に帰るような感覚になります。こうなるといろんな対象を同時かつ選択的に見ることができるようになるわけで、これまで「自分の体の感覚任せ」だった施術が、そこに縛られずに自由に扱えるようになります(二周目・三周目もあります)。ただもちろん、この場合は過去に「その感覚に特化していた時の施術」と比較すると、劇的な効果や変化は得られなくなります。ある感覚に特化して行う「劇的な効果の施術」というのは、その対象以外のものを見ないことで、その対象限定の強烈な反応を引き起こすものなので、いろんなものが見えるようになってしまうと、同じ反応は得られないのです。ただ、これは同時に「対象以外は反応しない偏った治り方」でもあるので、人によっては危険性の高い施術であるともいえます。

 

 私が指導の場で重視しているのは「治し方」ではなく「体が治っていく時に出るべき反応」です。これは体の機能が整い、次の段階に移行する条件が整った場合に出る反応なので、極論すれば「毎回のように劇的に変化する施術」であっても、その変化に至らなければ意味はなく、大きな変化はなくてもその反応が得られる方がずっと意味があるということです。師の言葉を借りれば「体が劇的に変化するような施術はよくない」「「気付かないうちに自然に治るから施術で治ったと思わない(だから感謝もされない)ような施術が理想」なのだそうです。私自身、施術でよくなったと感じさせてしまうことが多く、非常に難しい課題です。