七 手指の操作と扱う対象


 ここまでの説明は「昔の体の使い方」を前提とした体の操法についてでしたが、ここからはより施術に寄った話となります。私たちが行うのは施術=手技なので、「手先をどう使うか」は重要です。ただ、これまでの説明で「全身をひとつにまとめる」や「全身が等しく強い」としてきた手前、ここでは「手先を好きに動かす」ことができません。全身のバランスを崩さぬよう手指を使う必要があります。大和整体にはそのための基本ルールがあり、これを「按法八療」といいます。簡単には、手技による刺激を「点・線・面」などの形(刺激の形状)に区分するのですが、どんな刺激も必ずこれらのルールに沿って行います。

 

 按法八療というのは「面・尖・側・移」という四つの大按法と、「連続・断続」という二つの小按法の組み合わせです。これを簡単に説明するには「ジャンケン」が適しており、「面・尖・側」はジャンケンの「パー・グー・チョキ」に相当します。「面は対象を包み込むような広範囲の刺激」「尖は力を一点集中させた(針で刺すような)刺激」「側は刃物で切り裂くような細い刺激」です。残る「移」については「刺激を飛ばす」という表現になるのですが、これは「面・尖・側」を扱えるようになってからの話なのでここでは割愛させて頂きます。これらの刺激はそれぞれ「連続=持続圧」か「断続=断続刺激」のいずれかで用いていきます。

 

 これらの手技は、これまでの体の使い方と、必要とする刺激に適した手の形を作ること(その形に全身の力を収束させること)で可能となります。つまりは「正確な身体操作」を前提として、「点・線・面」といった幾何学的(機械的)な刺激を実践するのです。私たちの手は、その柔軟性によって機械にはできない「柔らかい刺激」を可能としますが、最初はこれを排し、ただ「機械的のような強く安定した力の発揮」と「機械のような正確さ」による刺激を実践していきます(これが可能となれば「正確さを伴った柔らかい刺激」をも扱えるようにする)。

 

 体に手指で刺激を加えるという時、その刺激には人の体ゆえの「不安定さ=曖昧さ」が伴うものです。通常、人の体は機械ほど正確な刺激を実施・維持することは叶いません。もちろん、そうした不安定さの中には生物ゆえの「揺らぎ」という面もあり、だからこそ「相手の揺らぎに合わせる」といったことも可能となります。しかし、何らかの方法を用いて「機械的な正確さ」で刺激を加えることが可能なら、「そうした刺激にしかできないこと」もあるわけで、まずはそちらを優先して習得するのです(そうした刺激を柔らかく柔軟にしていうことは後から幾らでも可能)。まずは工場にある「ロボットアーム」のように、力強さと同時に正確かつ繊細さを併せ持つ手技の実践を優先するのです。

 

 この按法八療を用いる大和整体の手技は、体の表面はもちろんのこと、どんな深部であれ「対象に自在に刺激を加える」ことを前提とします。そしてそれを可能とするのは大和整体の「体は繊維構造でできている」という考え方です。体のすべて(あらゆる器官・組織)を「細い糸の束」と捉えるのですが、その仕組みが糸の集まりであれば、糸同士の間には「繊維の隙間」があることになります。この隙間に沿って手技を行う限りは、体の深奥でも直接触れて刺激を加えることができると考えるのです。もちろん体の組織すべてを直接触れて扱えるわけではありませんが、直接触れることができないものについては「関節な力を加える」などの方法で対応していきます。つまり体のどんな器官・組織であれ、手技による刺激を加える対象となり得るのです。

 

 そしてここでは体の不調というものを「繊維=糸が絡んだ状態」とします。本来、正常に機能すべき体の内部に異常なり誤作動なりが起きてしまい、その状態が持続してしまう(治らない)というのが愁訴であり疾病です。そうした問題を「糸が絡んだ状態」と捉えるなら、それを治す方法は「絡んだ糸を解きほぐす」ことです。これは大和整体の施術、その一部を比喩的に表現しているのですが、こう考えることで施術というものは非常にシンプルとなります(あまり小難しく考えない)。そしてそこに「どんな深部の糸の絡まりでも扱える按法八療」があるのです。つまりはこれらを前提とする限り、大和整体の施術は「どんな不調であれ対応することが可能」です。これは用いる技術自体は単純でも、施術者の技量次第でより多くの体の不調を扱うことができるという意味です。そして「大和整体の施術の基本」を簡単に説明するなら、これで「以上(終了)」となります。

 

 私が認識している大和整体というのは、「全身の使い方」と「糸の絡みを解くための按法八療」、これらの基本がすべてなのです。問題はそれらを「どう使うか」です。大和医学・整体はとにかく「個」を重んじるので、それをどう使い、活かしていくかは「その人次第」です。もちろん師は大和整体の施術・手技の完成形ですが、先にも書いたように、師はそれを真似ることは許さず「自分で見つけろ」と言うのです。ですから私が受けた大和整体の指導も、私なりに構築したものを師に「これで合っていますか?」と確認する、その繰り返しでした(自分の考えや感覚が大和整体とズレていないかを確認する)。

 

 大和整体の施術・手技の考え方は、それが単純な分だけ応用の幅が広くなります。そしてやっていくほどそこにいくつもの段階設定があることに気付かされます。実際にやってみると、誰しもまずはその対象を「扱いやすい運動器(体壁系)」とします。それが長年かけて「運動器なら大体ほどくことができる」となれば、次に対象となるのは「内臓(内臓系)」で、これもほどけるようになると、そこでようやく「体の内外を等しく扱う」ことができるようになります(初期段階の全身機能の均等化)。そうなると、次は循環(血管の機能)レベルの微細な問題が浮き出てくるので、これをほどく対象に。こうした感覚に慣れるとそれまで扱っていた体壁系・内臓系をより深く見られるようになるので、そこに「これまで気付かなかったほどくべき多くの対象」が見えてくるようになります。そしてそれらも解けるようになると…、と言った具合に延々と施術の対象が広がっていくのです。もちろんそれらを扱うには、按法八療の応用をひたすら拡大して行かざるを得ません。どこまで行ってもゴールのない道筋が続きます(そうなると「繊維の先にあるもの」も見えてきます)。

 

 これは、通常では気づき得ないような「体の些細な問題」をひたすら掘り下げていくという作業です。こう書くと「そんな些細な問題までを逐一扱う必要があるのか?」と思う方もおられるかと思います。それに対する私の回答は二つで、そのひとつは「どんな問題も最初はほんの些細な出来事から始まる」です。例えは悪いのですが、大きな戦争も最初のきっかけは「ほんの些細な出来事」から起こります。体の愁訴・疾病の解消に、必ずしも「根本原因の解消」が必要というわけではないのですが、「何をやっても治らない」というケースでは対象を「根本原因」まで掘り下げることは非常に有効です。時には「右足が動かなかった原因がこんな些細な問題だったなんて…」といったこともあります。

 

 もうひとつは、大和整体が「一人の人間を生かすための技術」であるという点です。例えば百人の患者さんを相手に、長い時間がかかっても九十九人までは愁訴・疾病の解消ができたとします。施術には「相性」もありますし、一人の人間がすべての人を治すなど無理なことです。問題は、その「治らなかった一人」が「生かしたい対象(武家の長子)」であった場合です。これを私は「その一人が自分の家族などの身内だったらどうしますか?」と説明します。これを治すためには、通常では必要のない範囲まで、施術の対象を深く掘り下げる必要があるわけで、大和整体ではそこを「些細な問題」と軽視することはできないのです。

 

 ただ、こうした施術は「好み」が大きく分かれる部分だと思います。一般的な「多くの人を治したい」というよりは「体のことを深く知りたい」という人の方が向いています。「治す」という成果よりも、「自分なりの探求」に重きを置く人に向いている療法です。実際に愁訴・疾病を、私よりうまく・早く治せる方はたくさんおられます。大和整体が目的とするのは「繊維単位の機能の正常化」であり、そこで「治る」ということはその結果に過ぎません。「治す」こと自体を目的とはしていないのです(施術の結果として体が治る=体自身に治させる)。一人の人間の体をひたすら深く扱う、それが大和整体の根本となる施術観です。