五 体術=全身の操作 |
最初に、大和整体の体の使い方を、ここでは「体術」ではなく「体の操法」としておきます。ここを「体術」とすると、昔の体の使い方が不可欠となってしまいます。ここではそれらに習うことは重視しますが、その全てを必須とは考えないので、それを「体の操法」とします。この体の操法の基本となるのは「全身をひとつにまとめて使う」ということです。
よく体を動かす時に「全身運動」という表現を用いますが、「結果的に全身を使う」ことと、「意図して全身を使う」ことは全く違います。全身を等しく意識することで体の機能をも「均等」とし、その上で常に「体の全部を使って動く」というのが「全身をひとつにまとめて使う」ということです。こうした体の使い方では、どんな動作も「全身すべての機能を協力させる(全身の力を用いる)」となるので、現代的な体の使い方と比べれば「遥かに強い力」を発揮することができます。
昔のように「すべてが人力」であった頃では、どんな重いものを動かす・運ぶでも、それを人の力で行わなければなりません。それを可能とするには「どうすればもっと力を出せるか?」について、多くの工夫があったことと思います。そうした中で「全身すべての力を用いる」ことができる人は多くいた筈です(幼ければなおさら身に付きやすかったことでしょう)。そして、これを実践する人の体の使い方というのは、「足・腰・肩・手・首」のいずれをとっても、いまとは大きく異なるものです(現代のアスリートでもその一部を用いることでより強い力を発揮するなどのケースはありますが断片的です)。ネットで有名な「たくさんの米俵を背負ったお婆さんの写真」というのがあります。ひとつ六十キロの米俵を五つ(計三百キロ)を背負って立っているのですが、現代人がいくら体を鍛えたところで実践できるものではありません。こうした体の使い方は、戦前までは多くの場で残っていたようですが、戦後になって「欧米的な体の使い方」が広く導入されたことで殆ど消え去ってしまったとのことです。
ではそうした体の使い方(その中身)となるのですが、ここで説明したいのは「三百キロの米俵を背負う方法」ではなく、その入り口の入り口部分の話です。まず、「全身をひとつにまとめて使う」ためには、「体の外側に張りをつくる」ということが不可欠です。これは全身の関節を適切に操作することで全身の表面に等しく「一定以上の張り」を作る作業です。全身を「ひとつの塊」にするようなもので、これによって全身は強固に安定した状態となります。体というのはその各部をバラバラに使ってしまうと、その力の上限は「各部が有する力のみ」となります。しかし全身を一つにまとめると、そこから発揮できる力の上限は「全身すべての力」となるので、より強い力を発揮できるようになります。そしてこの実践は「適切な身体操作」の結果なので、「鍛えあげた筋力による力」などとは異質のものです(全身で均一な力の発揮なので「部分の負担」は少ない)。まずは「姿勢の安定」という程度に考えて下さい。
こうした体の使い方が強い力を発揮できる理由の一つは、「すべての力を足から発する」ことにあります。地面と繋がる足を起点とし、そこから発した力が体幹へ伝わり、上肢へと伝わるのです。腕というのはいくら鍛えても、それほど強い力を発揮することはできません。しかし足の力が腕に伝わるとなれば、腕単体では発揮しえない力が使えるようになります。「腕力」の上限は低くとも、「足からの力」の上限はずっと高いものです(足を鍛えればなおさら)。実際は「全身の隅々まで力を込める」ことで、「全身すべてが強い」という状態となるため、腕も強くなるのだと考えて貰った方が分かりやすいかと思います。
「全身をひとつにまとめて使う」ということの最大の利点は、武術などで言えば「体をひとつの塊として動かせる」ことにあります。仮に体重六十キロの人が、全身が凍ったように体をカチカチに固めて「体当たり」をしたとします。それは「六十キロの石(氷)の塊が飛んでくる」ようなものです。ぶつかられた側は、当たりどころによっては骨折などの大ケガとなります。昔の武術ではこうした攻撃が多く見られるのですが(拳を突き出しつつ全身を固めて突進するなど)、私たちがこれを行なってもそうした威力にはなりません。体のあちこちに「(無意識レベルの)弛み」があり、その弛みによって折角の「力=衝撃」を弱めてしまうからです。全身の動きを正しく制御するというのは、非常に難しいことです。しかし「全身を正しくひとつにまとめる」ということができたなら、それだけで普通の体の使い方ではできないことが数多くできるようになります。
次は、この状態のまま体を動かしていきます。とはいえ、全身の張りを保ったまま体を動かすことになるので「自在に動ける」ということにはなりません。ここでの「動き」とは、最初に全身に張りを作った状態、その性質を維持したままで行わねばならないので、そこで可能な動きには一定の制限が伴います。こうした体の動きを言葉で表現すると、それは「体というひとつの塊がその形を変える」といった風になります。全身の外側を均等に張り、その状態を維持できる範囲で体を動かすのです。もちろんこの状態では「手足をバタバタさせる」といった大きな動きは叶いません。目的とする体の動きを、最小の動作で成立させる必要があります(無駄な動きは行わない)。
私たちの体というのは、あちこちが自在に動きます(動かせます)。しかしそこに全体性(統一性)が伴わなければ、そこで発揮できる力の上限は「各部が有する力」のみとなります。そして「全身の動きを正しく制御する(正確に動かす)」には、ただ「全部を動かす」だけでは効率が悪くなってしまいます。各部の機能から「動かすべき部位」「動かすべきでない部位」を明確に定め、「余計な動きという無駄」をなくす必要があるのです。簡単には、体の支柱である体幹=脊椎はあまり動かさず、手足のみを動かすことが基本です。とはいえ、これだけでは「手足だけが動く」となってしまいます。実際は「まず体幹を固め手足を動かす」「四肢をその土台である肩甲骨や腸骨から動かす(四肢の根元を動かす)」「固めた体幹を僅かに動かしその力を四肢へと伝える」などの段階設定が必要です。動かすべき部位・動かすべきでない部位を明確に区分することで、最初の「体の形」の性質を要所に残しつつ「形を変えるように動く」のです。またこうした体の使い方は、最初の時点では相応の力を必要とするものの、そこからの動きは「形を変える(体の内部に有する力の向きを変える)」だけなので、体を動かすのに大きな力を必要としません。
こうした体の使い方で重要なのは、体の「静」と「動」を明確に使い分けることです。私たちの体には、意識・無意識による様々な緊張が存在します。自分では「全身を止めている」と思っていても、無意識レベルで「どこかが動いてしまう」となれば正しい「静」とはなりません。これは「全身を動かす」でも同じことで、無意識レベルで「動かないところ」があれば、正しい「動」とはなりません。そうした本来なら制御できない「無意識の動き」を、体の操作によって意識化できるようにすることができれば、そこで初めて「全身を止める」「全身を動かす」ことが可能となります。もちろん体の細部、その隅々をすべて意識化するのは難しく、その実践には長い年月が必要ですが、まずは「ほぼ全身を意識化して動かし・止められる」という程度でも、従来の体の使い方とは一線を画すものとなり得ます。 |