三 大和医学の食=用食療法

 

 大和医学の中核を成すのは「用食療法=食」です。ただしその中身は、皆さんが期待するような「食に関する特別な理論」があるわけではありません。幾つかの基本となる考え方は存在するものの、その大部分はいわゆる「お婆ちゃんの知恵袋」的な知識、その集まりです(これは「健康短文集」という括りでまとめられています)。それらは次のような文章の集まりで、大和医学独自の考えばかりというわけではありません。

 

四季養生

    春は 苦味な もので 夏を 養い
    夏は 塩味な もので 秋を 養い
    秋は 酸味な もので 冬を 養い
    冬は 甘味な もので 春を 養い
      土用は 辛みな もので 四季を 養う

 

 先の「武家に力が集まる」という話からすれば、「それまで野(民間)にあった食の知識をかき集めた」といったところなのでしょう。野にあった「食の経験によって培われた知識」。これをひとつにまとめ、以後の長い年月でその取捨選択を行った結果として残ったものが、大和医学の用食療法ということになるのだと思います。そうした意味では、用食療法の中身の多くは皆さんもどこかで聞いたことがあるような内容が多く含まれています。ただしそうした中にも大和医学なりの「核」となる考え方は存在するわけで、その代表的なのが次の「飽」となります。

 


  人体は 数えきれないほどの 不可思議な能力を持っています
  其一つ 飢える事に対しては 奇襲でも完全整備されています
  所 が 飽食に対する備えは 身体中で何処にも見つから無い

 

 つまり、体にとって「飢え」はなんら恐いものではなく、本当に恐いのは「食べ過ぎ」であるということです。これを野生動物に例えるなら、食べ過ぎで動きの鈍った獣がいたとすれば、その獣は襲われても「逃げられない・勝てない」となるので、次は自分が餌になるしかありません(生存競争で生き残れない)。だから動物は「動ける余裕」を残すために、必ず食を「腹六分」に留めます。生き残るための選択として「食べ過ぎ」はあり得ないのです。「食べ過ぎ」をするのは人間と、その人間に飼われている犬猫くらいです。そして実際に多くの人の体の不調の背景にあるのはこの「飽」です。

 

 ここまでは「飽」を分かりやすい「食べ過ぎ」に置き換えて説明しましたが、「飽」の正しい意味は「余計な食(本来は不要な食)」の全般です。食べ過ぎはもちろんですが、他には「お腹が減っていなくても時間で食べる」といったタイミングの問題もあります。「お腹が減った」というのは、体の側で「消化吸収の準備が整いましたよ」というサインです。それを「お腹は減っていないけどお昼だから食べる」とすれば、それは体の側に準備が整っていないのに食べるということです。「まだ先の食事からの栄養が足りている」「先の食事で胃腸が荒れてしまったので修復している」「体の機能に問題が生じていてその修復に全力を注いでいる(食事の消化・吸収にまわす余力がない)」などの理由から「お腹が減っていない」のに食事を摂れば、それは体にとって負担にしかなりません。本来、体の栄養源である食も、体の事情を無視して摂取すればそれは「毒」になりかねないのです。

 

 私がこの説明によく用いるのが「調味料なしでキャベツを食べる」です。本当にお腹が減っていれば、ただのキャベツでもそこに甘みなどの「味わい」を感じることができ、調味料なしでもある程度は食べられます。しかし「相応にお腹に溜まった」となれば、もう美味しいとは感じないのでそれ以上食べられません。これが野生動物の「腹六分」の感覚です。現代人は調味料などの「味=刺激」で食べる感覚に慣れてしまっているので、「体の感覚に従って適量を食べる」ということができなくなっているのです。

 

 次に核とするのは「民族性」です。どんな民族も、限られた食の環境に順応することで長い年月を生き延びてきました。例えば「獣の肉」が豊富に取れる地域では、長い年月をかけてそうした食事に適した体が出来上がります(肉を消化・吸収するのが得意な体となる)。獣は少ないが農作物は育つ地であれば、その地で育つ農作物に適した体となりますし、肉も取れず作物も育たないが牛は育つという地であれば、乳製品に適した体となります。こうしてどの民族も、その地の食生活に適応できる体を、長い年月をかけて作り上げてきたのです。しかし現代ではそうした「体にあった食生活」という概念も失われつつあります(日本人の食事の欧米化など)。

 

 師曰く、日本人のように「米が主食」の民族は、米ばかりを食べ続けることで体内に「米を分解・吸収するための酵素」が体質的に増えるのだそうです。つまり「米から栄養を摂ることが得意」となるのです(少ない労力で多くのエネルギーを得ることができる)。そうした日本人が「肉主体の生活」をしても、それを分解・吸収する酵素が多くないので、結果的に「あまり栄養を吸収できない」となってしまいます(腸内腐敗などの弊害の方が大きい)。ましてそれが「今日はラーメン」「今日はパン」「今日は肉」「今日は米」などと分散してしまうと、そこに「特定の酵素が増える」という要素がないので「何を食べてもあまり消化・吸収ができない」という状況となってしまうのです。

 

 いまの日本の食文化の中心にあるのは「栄養信仰」です。「いかに多くの栄養を摂るか」ばかりが重要となり、そこに先の「飽」や「民族にあった食」という考え方はすっかり抜け落ちています。大和医学では「食べたものを消化・吸収する」という工程は、そこに「膨大な体力」を消費する大仕事と考えます。私たちは栄養=エネルギーを補充するために食べるのですが、その食べる(消化・吸収)という作業で膨大なエネルギーを消費しては本末転倒です。重要なのは「いかに少ないエネルギー消費で多くの栄養を摂取するか」であり、そこで重要となるのは「食べ物の栄養価の高さ」ではなく「体の状態と食事との相性」です。こうした考えを前提とするなら、「余計に食べる」というのは、ただ体に余計な負担をかける(体を壊す)だけの行為となるのです。最後に、大和医学が推奨する日本人の「理想の食」について載せておきます。

 

長寿八香
    旬を大切にして   穀類を基本に置き
    発酵物を必ず取り  豆類を中心にして
    海藻類を卓に載せ  よく噛んで食して
    華に走らず     粗なるべくして
    腹八分を良として  六分にて長寿なるべし