一 大和医学について |
大和医学は、群馬県新田郡を原点とした源氏の後裔であった「新田堀江家」に、八五十年にわたり受け継がれてきた伝承医術だそうです。これを私は先代の堀江糾(ほりえただし)医師(以後は師とします)より引き継がせて頂きました。私が教わった当初で八百五十年という話でしたので、現在では八百八十年となるでしょうか。そしてこの伝承医術の目的は、「多く人を癒すこと」ではなく「その武家の長子を生かすこと」にのみ用いられてきました。武家にとって重要なのは「家の継続」です。そのために次男が医術を継ぐという習わしだったそうです(近代では次男は皆医師となる)。大抵の医術・療術が「多くの人を癒す」ことを目的とするのに対し、「長子という一人の人間」に対象を絞るという考え方は、現代人の感覚からすると異質ではありますが、これには「秘伝(他に漏らさない)」という意味も含まれます。この「対象を個人に絞る」という考え方こそが、大和医学・整体の特殊性と言えます。
大和医学は中医学の影響を受けて成立したらしいのですが、結果として出来上がったものは中医学の対局を為すものとなります。大和医学の理論・独自性を最もよく表すのは、中医学の「陰陽五行」に対する「経緯四行」という考え方です。これは私なりの解釈ですが、「陰陽五行」というのはまず「陰陽」の部分が、一般的な陰陽図に見られるような「完全なる循環」を表すのだと思います。いわば陰陽の一言に「世界の在り方」そのものが表されているようなものです(この辺りは太極拳の先生に中国思想として深く教わりました)。そして「五行」の五という数字は、古代の数学にとって「終わり・完全」を意味します(全ての事象は一から五の数字だけで表せるという考え方)。世界=陰陽の在り方を五つに区分し、そこにすべての事象(人の体の好不調をも)を当て嵌めていく。これが陰陽五行の目指したものなのだと思います(あくまで私見と捉えて下さい)。
対して「経緯四行」の経緯というのは「経と緯」、陰陽のような二極の意味を孕みつつも、時には交差し(経度と緯度)、「物事の経緯」などと使われるように時間的な意味も孕みます。二極から始まりながらも、そこに立体的な広がりを持つ表現となります(師はよく中医学は平面的・大和医学は立体的であると話していました)。そして四行というのは「広がりの数」です。生物の細胞は一つから二つ、二つから四つと分化していきますが、それが「四」という数になって「面=形」となり、「東西南北」「上下左右」「春夏秋冬」といった世界の多様性を表すものとなります。そして四は八へ、八は十六へと際限なく広がっていきます。陰陽五行の「五」を終わり=「閉じる数」とすれば、四は「広がりの数」というわけです。
この違いを私は「世界と個(人=個人)というものの捉え方の違い」としています。人というのは十人十色・多様です。これを捉える方法として、中医学は先に「陰陽五行」という枠組みを作り、その中で多様な個を分類・整理しようとしたのだと思います。これを一言で言えば「世界があるから個がある」という考え方です。対して「経緯四行」は先に「個ありき」です。個人の多様性、まずはこれを「経緯」という広がりの中に落とし込み、それを「四行」という枠で整理しつつも、そこにさらなる広がりを持たせます。唯一無二の「個」というものを理解するために、世界の概念をどこまでも拡張するといった考え方だと思って下さい。こちらを一言で言うなら「個があるから世界がある」となります。先に世界の枠組みを作り、そこに個を分類・整理することで個の在り方を捉えようとした陰陽五行。あくまで個を深く理解することに固執し、そのために世界の概念を際限なく広げた経緯四行。どちらも「個」を理解するための方法論ですが、見ている方向は全く逆となります。
ここまでの説明でも何となく伝わると思うのですが、経緯四行という考え方は非常に感覚的で曖昧なものです。陰陽五行というのは、その考え方を誰もが共有できる「客観性」を備えていますが、経緯四行にはそれがありません。「本人だけが分かっていればいい」という、至極「主観的」な概念なのです。そもそもが「長子のみが対象」「一子相伝という環境」なのですから、そこに他人に理解・共有して貰うための「客観性」は必要ありません。「ただ目の前の人を深く理解する」ための理論体系なのです。
ただ、こうした考え方は「唯一無二の個」を理解する方法として有効ですが、弊害もあります。中医学は、陰陽五行という枠組みの中に「個」を落とし込むことで「診断→治療法」という定型的な形を持ちます。これは「診断が定まれば治療法も定まる」ということです。対して経緯四行は、唯一無二の個を理解するため、「診断」の範囲を著しく拡張しているので、それが「治療法」に直結しないのです。つまり診断するための方法論は多彩ですが「治す方法は別」というわけです(私はこれを「投げっぱなしジャーマン」と呼んでいます)。大和医学はとにかく「個の理解」に重きを置く医術体系なのですが、その背景にあるのが「個の特異性」という考え方です。
師はよく「わたしとお前では体も考え方も感じ方も違うんだ、わたしの真似をしても意味はない」と口にしていました。相手(患者さん)が唯一無二の個なら、こちらも唯一無二の個というわけで、診断にも治療法にも定型的な決め事があまりないのです。人の体は皆違います。似たような症状に見えても、その背景は人によって大きく違うわけで「一つとして同じ体、同じ愁訴は存在しない」という考え方が大和医学・整体の出発点です(これは施術者側にも言えること)。
大和医学は「感覚的」「主観的」な部分に多くを頼る理論体系です(その時点で理論とは呼べない気もしますが)。その点でも、中医学のような「客観的な正当性を持つ理論体系」とは対極にあるのだと思います。ただそこには「理論化・言語化することで失われてしまうもの」を嫌い、敢えて「曖昧なものを曖昧なままに=感覚的なものを感覚のまま捉える」という要素を大切にしたという背景も見てとることができます。 |