基本と応用の整理


 

 大和整体は”人(ヒト)を変える”ための整体療法です。体と意識は密接な繋がりを持つので、体が変化するということは、それが正しく行われる限手の実感を以って体を理解する」ということに繋がり、体と仲良くなることに繋がっていくのだと思います。

基本の段階
一、体を確実に”変化”させる 二、変化と整えることの両立

◆術式一から三:体を正確に動かすことが前提
全身を均等に動かす(纏の感覚)
体の静止と動きを明確に区分
手指に明確な”形”を作る/按法八療
体の静止による身体感覚のリセット

◆「立つ」と「動く」を構造的・理論的に整理する
保護姿位と体の歪み
連携と連動
体の区分/上下・左右・内外
体幹の統合
膝関節と肘関節の境界

三、体に合わせて施術する

四、体を多面的に統合させる

◆術式四:液体感覚を有していることが前提
自分の体の安定を崩すことで成立
体に合わせるは二種(静と動)。
何かを基準に合わせる感覚
どこにも合わせないことで合う感覚

◆一と三を融合して体自身の反応を引き出す
「何か(基準)から全身を統合させる
 体壁系/機能的に重要な骨が基準
 内臓系/主に消化器・呼吸器

 

 

 ここまでの段階で、それほど難しい体、難しい愁訴でない限りは、大抵のケースに対応ができるようになっていることと思います。そのひとつの目安は、体の機能・感覚が正常化することで現れる「左足部の異常(それまでうまく整っていた体から左足部の強い機能異常を感じる)」で、ここではそれを「身体感覚と運動機能の再構築」としておきます。これが表面化した体では、施術に対して本来の自然な反応が得やすくなるので、体を正しい機能へと誘導しやすくなります。しかし中には、どうしてもその状態に至らない体、もしくはその状態に至ったにも関わらず途中に不自然な反応を引き起こす体はあるわけで、こうしたいわば「例外的な反応をする体」については、基本の四段階とは異なる施術が必要となります。また、そうした体の背景には、以下のような要因の関与が考えられます。

 

① 機能が著しく複雑化している(強い緊張を前提としてしk体の機能が維持できない)
② 体の機能が(全体・部分問わず)一定以上に低下している(乖離なども含む)
③ 幼少時の正しい身体感覚の記憶が乏しい(体自身による統合ができない体)
④ 独特の感覚を有しており体の反応も通常と大きく異なる(体の基本的なシステムがうまく作動しない)

 

 こうした状態は複合的に作用することも多く、分類や扱いが難しいのですが、その対応の方法は基本の四段階の中に含まれています。ただ、実際にはその四段階のそれぞれを「より深い意識」で行う必要があるため、それぞれを「特化()深化」することで対応が可能になるわけで、そうした点では段階の一から四を平均して扱うこれまでの感覚・技術とは一線を画すことになります。

 

 これまで「上級・応用」として指導をさせて頂いた内容について、それらが「ただの技法」 として伝わってしまうことに違和感を覚えておりました。いま言葉にすれば、それは上述の「特化(深化)」という感覚の欠如であったように思います。傍目には「これまでの延長」のような手技・施術であっても、それは「これまでの感覚・方法では変え得ない何か」を変えるための技法であったわけで、先に、次に説明する「どういう状況に用いるか」といった、その技法を使う「前提条件」があり、その条件下で一定の効果を得るための「必要水準(達成条件)」があるわけです。この二つが揃わなければ「ただの技法」になってしまうわけで、ここで改でその整理をしておくこととしました。

 

応用の段階
① 機能が著しく複雑化している ② 体の機能が(全体・部分問わず)一定以上に低下している

<施術に体は反応するものの何をやっても効果が維持されない>

これには残る②から④まで全ての要素を含むことが多く、厄介な体を表す包括的な定義と言える。②から④の要素を含むものの、そのいずれも際立っていないことでここに分類される体。昨日の複雑化から多くの誤作動が日常化している状態。

<表面の反応からは気づきにくい潜在的な機能の低下>

この背景にあるのは先天的、もしくは後天的な体に対する意識の低さか、全身であれ部分であれ、体を感覚することへの強い拒否が考えられる。前者は受動的、後者は能動的(確信犯)の違い。

◆ 体に起きていること
②から④のいずれかが際立っているのでない限り、誤った機能に明確な執着があるわけではなく、丁寧にその機能を整理・単純化していくと相応の反応は得られる。体の機能が単純化していくと、どこかで②から④のいずれかに切り替わることが多い。
◆ 体に起きていること
全身であれ部分であれ、著しい感覚の欠如は気づくことが難しい。これは脳内でバーチャル・ボディ(擬似体)とでもいうべき擬似的な身体感覚が形成されているためで、これが高い精度で作られていると通常はその機能低下に気づくことができない。
体の機能を単純化する
身体感覚を内臓優位へと変える
足部の機能を引き出す(圧腿の感覚)
を基準に体の機能を統一する
内臓バランスにとくか

感覚神経の回復
体への執着の回復
外部からの刺激に対する反応の向上

「擬似体」を触れさせられる感覚

③ 幼少時の正しい身体感覚の記憶が乏しい

④ 独特の感覚を有しており体の反応も通常と大きく異なる

<施術で良くはなっても一定以上に体が整わないという体>

生後の早い段階から強い緊張の必要性が生じたことで、体がおおよそ整っている状態となっても、自力では体の機能を統合すること(安定させること)ができない。施術によって統合をさせても、うまく定着してくれない。

<施術の常識の通用しないイレギュラー反応が主体の体>

これには何かをきっかけとする外因のケースと、もともと持って生まれた特殊な感覚という内因のケースが考えられる。どちらにせよ、共通するのは体の現実感が希薄であり、体の原始的な機能がうまく機能していない。

◆ 体に起きていること

自身の体を周囲との相対的な感覚でしか捉えることができなくなっているケースが多く、その場合は感覚を自身の体に収束させることを苦手とする。体を周囲から切り離し、自分を基準とした身体感覚の再構築を必要とする。

◆ 体に起きていること

脳内局部の活動が過剰なことが多く、それに伴う著しい内臓感覚の低下が見られるが、その回復は困難。「立つ」ことに伴う重力の感覚や、居場所(座標)といった感覚には比較的反応しやすいので、まずは「ここにいる」という存在の感覚(リアル)を回復させる。

が生じる術式四
あえて自分の体を崩す
液体感覚
 体壁系
 内臓系

 

 植物の仕組みが単純なのは誰でも理解しやすいと思います。しかし動物の体の仕組みも、その基本的構造は単純なもので、それは「外界からの刺激に反応すること」です。最初はシンプルな反射という動きから始まり(ユクスキュルの「生物から見た世界」参照)、それが次第に複雑な構造を有するようになるわけですが、その動きの多くが無意識的、反射的な動きに頼るものである限り、基本的な動きの仕組みはそれほど複雑ではありません。見た目の動きが複雑に見えても、それが無意識的、反射的な動きである限りは、その仕組みは単純ということです。この「複雑」「単純」の区別は、その動きを処理する「脳への負荷」という観点に依っています(動作の複雑さ・単純さより動きに伴う不可の方が重要)。しかしここに「意識的な動き」という要素が加わると、その仕組みは途端に複雑なものとなります。

 私たちヒトの体で、その動きが容易に複雑化してしまうのはこの意識のためであり、意識に伴う思考のためです。意識的な動きというのは本来、周囲からの刺激に対して自然に発現すべき「無意識的・反射的な動き=(本能的な動き)」を緊張によって抑制し、そこに新たな動きを上書きすることで成立します。私はこれをよく「ブレーキを踏みつつアクセルを踏んでいるようなもの」と表現しますが、実際にこれを実行する時に脳にかかる負荷は、本能的な動きのそれと比べると比較にならないほど大きなものです。ここに、更にヒトならではの「複雑な思考」が加われば、脳がその負荷の大きさから日常的に誤作動(バグ)を起こすのも仕方がないことで、それは容量不足のパソコンで膨大な工場の機械(体)を動かすようなものです。そこでは日常的に誤作動が起こり、それを補うために体にも脳にも多くの緊張が必須となります。これを前提とすれば、「現代人では大抵の体が誤作動を前提して機能している」と考えられるわけで、そうした体では愁訴や疾病も治りにくくなるわけです。

 そこで私の提唱する「体の機能を整えるということは複雑化した機能を単純化すること」となるわけですが、こうした施術は二つのに分けて考えることができます。① 誤作動を起こしている脳の機能を正常化させ、本来の情報処理能力を回復させる(脳自身に複雑な機能を整理させる)。② 緊張や捻れなどで複雑化している体の運動機能を単純化する(神経反応を整理する)。ただし①は、体の側の神経機能が一定以上に確保されていることが必須となります。仮に骨折などでうまく動かなくなり、そのまま数十年が経過したような関節組織などでは、神経自体の働きが著しく弱まっているため、脳からの支配力(強制力)も薄まっています。これを脳からの変化で正すのは難しく、仮にできるとしても体に大きな負担を伴うような相当に大きな変化が必要となります。こうした場合は直接体の側を扱った方が効率はよいわけで、脳からの変化は「体が脳の反応に無理なく順応できる状態」になってから行うべきと考えられます。ここで「まずは体の機能を底上げする」というボトムアップの施術が成立するわけです。

  ボトムアップの施術で重要な意味を持つのは「時間の感覚」です。体が悪くなるには相応の時間の経過と、それに伴う組織変化や組織変性があります(経年変化)。そしてそれらが正しい機能に戻るのにも一定の時間は必要です。体を治すということに必ずしも時間の感覚は必須ではありませんが(トップダウン的な施術には不要なことが多い)、時間に伴う諸々の要素の蓄積による「重さ」を解消するには、時間的要素は重要な意味を持ちます。「中から悪いものが出てくる」としても、急かしてしまえば出てくるものも出てきません。施術の中に「時間的な余裕」を儲けることでしか扱えないものも多くあるわけです。大和整体の受け身の施術だからこそ成立する、「待つ」という感覚です。この「待つ」には、同時に「味わう」という意味もあり、じっくりと味わうことでそのヒトが長い時間の中で経験してきた諸々の感覚を正しい意味で共感、理解できるわけです。この感覚の中でしか見えないもの、感じ得ないものを扱って欲しいのが、基本の段階を終えたヒトに行って欲しい施術です。

 


 体には個体(感覚)という側面以外に、液体感覚(一定の形を持つ)、気体感覚(明確な形を持たない)という側面があります。後者の二つは、それが体の機能と正しく繋がれば「全身が均一に機能する」という状態となるわけで、その段階では理論上は体は理想的に機能する筈です(そこで愁訴や疾病も消えることになる)。そして基本の段階における施術の習熟は、これと繋がっている限りにおいて大きな意味を為すものです。しかし実際には、それだけで全てが治るわけでも、体が理想的に機能するわけでもありません。もちろんそこには「段階設定」があり、これは「粒の大きさ」に置き換えて説明することもできます(粒の荒い流体とキメの細かな流体の違い)。しかしそれらを仮に分子レベル、量子レベルで行ったとしても、実際にはそこで「治らないもの=変わらないもの」は残ります。そこで、この「変わらないもの」とは何か?となるわけです。

 

 ここでの「変わらないもの」とは、「形を有する何か」に置き換えることができます(膜の引き連れなどの「平面」も形)。液体・気体という明確な形を持たず、体全体が流動的に機能する身体感覚・身体変化を経ても、なお残る何らかの力が収束した形(個体に限らず液体・気体でも「朧げな形=力の集合体)というものは確かに存在します。体が物質である限り、液体や気体の流動性という観点からすればそこに「形」が残る要素はない筈です。そうなると、この形を成立させる要素は、物質的な法則の中には存在しないわけで、これら以外のルールの中でそれが可能な要素となれば、その答えは「そのヒト自身の意識」しかありません。小難しく量子論的な言葉に置き換えれば、本人の意識が体を形作っているように、同時に本人の意識がこうした異質な形という滞りを作っていることになるわけです。これは本人の自覚のあるなしに関わらず、意識の中に生じる思考や感情、または記憶に伴うそれらの濃淡が「意識の形」を作り、それが体にある種の形として反映されるというわけです。もちろんそこには、成長過程における体の使い方についての間違い(勘違い)や、怪我や病気などによって歪められてしまった身体感覚や身体機能という面もあります。この多くは施術で正せるものではあっても、「その全てを正すことはできない」わけで、ここではそれらも「広義の意識の形」に含むものとします

 

 つまり体の機能を、液体ないし気体の状態で可能な限り均一に機能させてもなお残る体の不調、この背景にある変わらないもの=「形」というのは、もはや通常の施術で「体の機能をどうこうする」という話ではなくなってしまうわけです。仮に、ある種の「膜の引き連れ」などは物質的な問題ですが、それが「ある特定の状況下におけるある特定の動き」にしか反応しないとしたら、これを施術で直接に扱うことはほぼ不可能です。また、本人の体の使い方が、無意識にその問題を避けて成立しているのであれば、これは物質的な問題でありながら、その解消の術は「本人の体を動かす意識を変えること」となり、やはり意識の問題となってしまうわけです。

 

 ただこうした状態も、見方を変えれば「そのヒトのあり方全てが体という物質に反映されている」という、大和整体本来のな施術観に帰結するものと言えます。「体を扱うのはなく体を通じてヒトそのものを扱う」ということです。つまり大和整体の主題である「ヒトを治す」ということの真意は、この段階に至って初めてリアルとなるわけです(ヒトを治す感覚でしか体も治せない)。目の前にある心身の異常、その背景にある変わらない「形」、これを扱うことができる限りにおいて「ヒトを扱う(治す)」という施術が成立するわけです。

ただしここでひとつの疑問が生じる。「ヒトの心身は正しく機能しなければいけないのか?」「何が正しいのか?」。

 

 こうした問題を全て解消し、ヒトとして理想的な心身を生み出すことができれば、それは神(カミ)を生み出すに等しい行為となる。そこまで思い上がった人間もそうはいないと思うので、実際の施術で可能なのは、せいぜい患者さんが「いまよりよい状態」へと移り変わることだと思う。先の「意識の形」とうのは、仮にある部分の形を解いたとしても、その結果として全体の形が変わり、その新しい形は前よりずっと凸凹になるかもしれない(奥底のものが表面化した結果)。恐らくはただ形を変え続け、「永遠に整うことがない」というのが正解だと思われる。仮に、整うことがあるとしても、それは施術の結果ではなく、本人の選択した結果でしかあり得ない。そうなると、こうした段階で施術が目指すべき事柄は何か? となるわけだが、それは形を整えようとすることを通じて、全体を柔らかくしていくこと、柔軟性の向上なのだと思う。 体の形が変わり続け、それが意識の形の変化に繋がり、そして意識の形も変化をし続ける。そもそも”変化”という言葉には大きな意味(易)があるわけで、「柔軟に変化し続けること」こそに、ヒト本来のあり方があると思えば、施術とは「変化を与え続けることで

うのそのヒトなりの答え不完全で正しい答えすら知らぬ我々=”ヒト”にそれが可能なわけもない。く、ここから先は手探りの程度問題。2になわけで、様にこうした観点からすれば、残る異質な形と流体形