大和の独り言


 

 R02/03/20 … 股関節を「畳む」

  勉強会が終わったあとに補足で書こうと思っていたことが今頃になってしまいました。

 前回と今回、ともに「股関節を合わせれば捻れが消える」的な内容でしたが、股関節の重要性については話したものの、それ以外は話せず。まぁ、言葉にするのが難しいことなんですけどね。

 誰しも体幹に捻れを抱えているので、そこから生えている脚をそのまま地面に着いてしまうと、当然体幹も下肢も捻れたままです。じゃあこれを正すように動きたい場合、どうすればいいのか? 体幹と下肢の接続を一時的に切ってしまえばいいのです。体の捻れというのは、体幹がもともと抱えている捻れがあるとして、そこから生えた脚がその形をそのまま地面に着いてしまうと、それはそもそも「地面にはまっすぐ着けない脚」なので、地面に着いた時点で「すごい捻れ」が生じてしまいます。そしてそれが体幹にフィードバックされることで体幹はさらに捻れる。簡単には、体幹の捻れをいうのは寝ている時はそうでもないのに、立つと一気に悪化するわけです。これが厄介。

 体の捻れというのは「下肢と体幹の繋がり方」という意味で必ず股関節に反映されているわけで、普通の人の股関節はそれを前提としてしか動くことができません。「だいたいの位置が合う」ということは起こり得ても、「捻れのない股関節」というのは普通は成立しないわけです。それを寝た状態で合わせて、それに下肢(先月)なり体幹(今月)なりを合わせてしまう。そもそも股関節の動きというのは非常に精密かつ複雑なので、あそこまで合わせてしまうと、それを崩すことも難しくなります。だから立った瞬間に動けない状態にもなる。股関節な高度な機能と、高度なプログラミングを利用するからこその芸当なわけです。それだけ「股関節に捻れがない」という状況は、体にとって特別なことというわけです。

つづく。

 


 

 R02/02/26 … 緩んだ先にあるもの  つづき

  「体を緩める」にあたって、誰もが実感しやすいのは「筋肉を緩める」です。意識的に動かすことが可能な唯一の組織ですからね。ただ体には筋肉以外にもいろいろあるわけで、普通はその先の説明がないわけです。そして筋肉というのは意識的に操作できる分、間違った操作にも陥りやすい。だから「緩んでいるつもり」という間違いが生じる。これが中国になると「骨を緩める」という次の段階が提示されているわけです。

 この「骨を緩める」というのは、まずは骨を一個一個分離していく、という作業になります。私がよく「骨を正しく認識させる」というのと同じことですね。誰しも自分の大腿骨が、どこにどういう形であるのか、よく分かっていない。分かっていないからうまく動かせない。この「骨の認識」を自分でやるわけです。手根骨のひとつでもおろそかにせず、全身の全ての骨を分離させる。ものすごい大仕事ですが、これを何度も何度も繰り返していくのが中国人の根気のすごさです。そして骨が分離できた状態(全ての骨を正しく認識できる状態)に慣れると、そこからようやく「骨を動かす」ということができるようになります。これも勉強会でやった「骨のしなり」です。骨を伸ばしたり・縮めたり・捻ったりできる。最初は長骨主体でしかない感覚ですが、それが全身の骨に反映されてくると、全身の骨を伸ばしたり縮めたりも可能。これができるとそれまでの「骨という形」という制限もなくなるわけです。

 実際にはその過程で重要となるのが「膜」です。骨を分離して動かせるようになると、私たちがもっとも意識しにくい支持体である「膜」の引き連れが頻繁に顔を出すようになります。骨すらまともに分離できない状態で「膜の引き連れ」を感じるのは不可能なわけで、骨の分離が終わることでようやく顔を出すわけです。実際は骨を伸ばしたり・縮めたりと、膜を動かす作業は同時期に一緒に起こるわけで、双方がバランスよく機能することで骨も膜も解けるわけです。これは感覚など通用しない世界なので、地道な訓練の継続あるのみです。そしてこの部分の訓練が、大概のジャンルでは欠けているんですよね。

 ただ、これが終わったとして、それは体が「緩んだ」というだけです。「緩む」と「使う」は全く話が違うわけで、せっかく緩んだものも、それを使えなければ(活かせなければ)、また固まっていくだけです。そこには「使いこなす」という感覚が必須。そうなると、ここまで書いたことは「緩むまでの段階」。そしてそこから先は「使う段階」となるわけです。もちろんそこには「然るべき使い方」もあるわけで、気の遠くなるような話です。ただ、それが先天的に恵まれた体を持っていて「出来てしまう人」がいるから困りもの。そういう人の教えというのは途中を全部すっ飛ばしているから、誰もそこに続くことができない。

 とはいえ、その方法論が中国にあるとしても、分かってしまうと実はいろんなジャンルにもそういう教えが含まれていたりするわけです。分かった上で接してみると「なるほど」と思う。中国の優れた点は「過程を丁寧に説明してくれている」ということで、決して他のジャンルでそこが抜け落ちているわけではないのです。ただ「分かる人には分かる」としているだけ。その辺の仕組みが最近になって、ようやく分かってきた次第です。

 


 

 R02/02/26 … 緩んだ先にあるもの

  このスペースは「独り言」なので、もともと自分の頭の中を整理する場として作りました。なのでちょっと独り言を。

 体を「緩める」というのはいろんなジャンルにおいて重要かつ、最終兵器のような扱いになっています。じゃあ、そのゴールは?となると…悟り? 覚醒? だいぶ曖昧。そもそも緩みの最終地点がそれらであったとして、途中の経過について詳しく触れている人はいません。緩みのレベル1から始まり、レベル10まで行ったら、あとはいきなりレベル100みたいな…。

 緩みの過程ではいろんな気づきが起こります。そしてその中身をいろんな場所で教えてくれる。そうなると、ある程度緩んでしまえば、あとはいろんな人に教わることで「大体のことが分かる」。なんかそういう風潮になっている気がします。でも実際に「体を緩ませる」となると、それは非常に難しいわけで、感覚はすぐに先へと進めるけど、体はそうはいかない。体がある程度緩むことでいろんな感覚の扉が開くと、体の緩みは後回しにして感覚だけが先へ進んでしまう。これって大きな落とし穴だと思うんですよね。じゃあ、本当に徹底して体を緩ませる方法は?それを実践してきた人たちは?となった時に、私は武術系の人をわりと信用しています。いくら感覚が優れても、実際に相手を制することができなければ意味がない。そう意味で武術系の人にはリアリストが多い。

 ただ、いろいろ調べてみると、日本の武術は多くが心法寄りで、中国の武術は身法寄り。より体に対して徹底した理論を構築してきたのは中国だったりします。気功と武術の理論化とその充実度はやはり侮れない。そうなると中国は苦手なんだけどやってみるしかないわけで、いまはその真っ最中です。ただ私は「理屈を知りたい派」ですし、その辺をうまく抽出して整理するのも得意。周囲に恵まれたおかげで、わりと早い段階で「こういうことか」というのは掴めたと思います。自分の体で実践するのは別の話(笑)。

 

 緩みというのは一応の終着点が「形を消す」ことにあると思います。自分の体の癖、これを消して周囲に自然に順応する。言葉は「無」でもなんでもいいんですが、「自分」が先に立ってしまうと、それが形となり、うまく周囲と順応できず、ぶつかり合ってしまう。これを自分の形を消し去ることで自然の一員となる。まぁ、とんでもない理想です。それこそ実際にできてしまったら悟りと同義。いまはその姿を実際に目にする機会があるので、よく実感できます。でも、その人は私たちの想像を絶するような経験を経てそこに行き着いており、そこに至る簡単な道があるわけではない。そういう点で中国の叡智は便利だったりするのです。

つづく。

 


 

 R02/02/18 … ちょっと嬉しい

  先日、勉強会に参加して頂いたK先生が施術を受けにみえました。前回の勉強会で一番その意味を体感してくれたS先生に次いで体感してくれていたK先生。一週間後の体は想像以上によい反応です。入り口の扉を開いてくれた先生方は、あとはその中身を日々実感して貰いつつ、体の声を聴き続けて貰うことが大事なのですが、よく分かってくれてる。実際にはこれからが長〜い道のりになるわけですが、「うまく伝わった」と非常に満足な気持ちになりました。

 「捻る」というのは私たちの体の深奥に刻まれてしまった誤った感覚であり、これは思考や感じ方にもそのまま反映されています。人の心身に棲まう「捻れ」とでも言うんですかね。これをどうやって消し去るか。もちろん心からでも体からでもいいわけですが、私は「体」の方を優先に考えるわけです。体が正される過程で聞こえてくる体の声に従う。それが一番間違いの起こりにくい道ではないのかなぁ、と。

  施術において「上を目指す」という場合、私は二つの方法があると考えています。ひとつは「得る」。皆さんが勉強やセミナーで新たな価値観や方法論に触れることで、次々新しいものを手にしていく方法。もうひとつは「捨てる」。余計なものを捨て去ることで「もともとあったものの価値に気付く」という方法です。うちはもともと「体は本来完全体である」という考えですので、緊張や歪みなどの「余計なもの」を消し去っていくことで、それが結果的に心身をよい方向へと進めてくれる。そう考えるわけです。その時点で他の療法とは一線を画していると思っております。それが大和の独自性。だからこれまで指導させて頂いた内容も、すべて「捨てる」が基準になっているわけです。

 でも、同じものでもそれを「得る」と解釈されてしまうと別物になってしまうんですよ。私の説明は不十分なことも多々あったとは思いますが、それを今回の勉強会で伝えることができ、K先生の体で実感できたことは非常に嬉しいわけです。ただ、扉を開くに至らなかった人も焦らないで下さい。扉を開いてからも長い時間が続くわけで、早く扉を開いて後で苦労する人、扉を開くのに時間がかかっても後が楽な人もいるわけです。いまの苦労が決して無駄になることはないですし、私は扉を開いた人と同じ空間・時間を共有することが大事なのだと思っていますから。扉はひとつの区切りに過ぎず、その先にあるものに辿り着くのを目指し、その時間を愉しむこと。それ自体が目的なのですから。大事なのは、辿り着くのが目的ではないこと。そこを目的と思ってしまえば、もうそれは「形」となってしまいますからね。私も最近、そこが分かるようになりました。

 


 

 R02/02/11 … 最後の応用(元上級)勉強会を終えました!!

 

  先日の勉強会に参加して頂きました先生方、長い1日、お疲れさまでした! ひとつの内容を1日がかりでやるというのも初の試みでしたし、今回の内容が伝わるか不安でしたが、予想以上に皆さんがすんなり理解してくれたので、ちょっと驚きました。

 世の中にはすごいヒトがいる。でもそういうヒトは「すごい」ということに自覚がないから、「どうすればそこに近づけるのか?(何をどう努力すればいいのか)」ということが分からない。だからすごいヒトと、それを教わるヒトの間には埋めようのない大きな溝ができてしまう。そして、私の役割はその「溝」の部分に誰もが登れる階段(はしご)をかけること、そう長年説明してきました。そして今回の最後の応用勉強会は、その階段の最後を繋ぐ作業にしたいと思っておりました。階段を繋ぐと言っても実際は「ある一線を越えるための方法論」に過ぎないわけで、それだけで「届く」となるわけではないのですが、それでも一線を越えることで見えてくる景色が変わる(扉が開く)。努力すべき方向性が分かる。そうなればよいなぁ、と。

 実際、今回参加して頂いた先生方でも「完全に体感できた」というヒトと、「なんとなく体感できた」というヒトの差はあると思いますが、「捻れのない体・捻れのない世界」というものがあるということは知って頂けたと思います。とりあえずあれが、私が皆さんに提示できる唯一の階段であり、私が皆さんに伝えておきたかったことです。もちろんあれは単なる「テクニック」ではないので、単体で使っても相応の効果にはなりますが、扉を開くこととはならないわけで、これまでの伏線ありきです。これまでのものを全部使って、なんとかあれの効果が最も高くなるシュチエーションを生み出して貰い、そのタイミングであれを使う。あくまで「とっておき」ですからね。地味に練習しつつ、その時が来るのを心待ちにしましょう(笑)。

 ともあれ、「階段を繋ぐ」ことを半ば公約のように考えていた私にとって、今回の勉強会でそれを伝えられたことは、これまで長年大和に付き従ってくれた先生方へのお礼であると共に、勝手に「公約を果たした」という大きな節目となりました。正直な感想を言わせて貰えば…

 

すげぇスッキリした〜これで肩の荷が降りた!!

 

 と、思っております(笑)。

 もちろん今回の勉強会に参加されなかった先生たちにも、いずれそれを伝えたいとは思いますが、実際は私自身も自らの体でそれを証明しないといけないので、次はその完成形をお見せできたらな〜くらいに気長に考えています(さすがに今回の勉強会は簡単に復習で扱える内容ではないので)。

 本来なら、一般的には宗教的・武術的な長年にわたる修行で手にすべき領域と思われているわけですが、お米農家のお婆さんがそれを手にしていることを思えば、それは必ずしも特別の修行の賜物ではないわけです。ただ相応の条件は必要。そして私たちは治療師であり、治療を通してその条件を満たしていくという方法があるわけです。それが今回の「階段を繋ぐ」という内容。少なくとも「立つ」「歩く」ことの練習は必須ですけどね。

近い将来、先生方がそこを掴んで頂き、誰の目にも「一線を超えてる」と映る姿を目にすることができるのを楽しみにしております。というわけで、あれが「ゴール」だから、問題は「いかにそのゴールに辿り着くか」「いかに効率よく辿り着くか」となるわけです。とりあえず理屈での階段は繋いだけれど、先生方の中には「実際に施術で実践するとなると階段の途中があちこち途切れてる」ということも多いと思うので、これからの勉強会はそこを埋める意味での復習と考えています。

 ほんと、ここまで長かったなぁ…。この階段、自分の中ではずっと漠然とした答えとしてあったものですが、それが正しいかどうかも自信がなかったし、ましてそれを言語化・理論化するのはとても無理でした。それがこの一年に「禅」や「古武術」「中国武術」の師匠などにいろいろと教われたことで裏付けがとれ、よやくギリギリで説明できる状況に至った次第です。もちろん、私の言ったことを説明してくれる先生などはいないので、細かな断片を繋ぎ合わせることでようやくまとめることができただけです。それを自分の体で「これか〜!』と体感できたのもつい先日の話。なんか、いろんなことが今回の勉強会に合わせてうまく働いてくれたようで、それこそ、自分をとりまく全てに感謝しきりです。本当に無事に終わって良かった。

 とはいえ、私の用意した階段が本当に正しいのかは結果が出てみなければ分かりませんし、他にもっとよい階段を見つけてくれるヒトもいるかもしれません。なので、そこは「個人の好み」ということで、この階段を面白いと思う先生がいれば、私もできる限り大和の指導は続けていこうと思っています。ただ、一線を越えさえすれば、もはや方法論などどうでもいいわけで、皆さんが大和にこだわる必要すらありません。それでも皆が爺さんになった時に「同じ景色が見えている」となれば嬉しいわけで、これが私の念願だったりします。

 


 

 R02/01/15 … 勉強会の復習

  勉強会を終えたので、復習的な内容をここで書いておきます。

 最初にやった「触り方」は、相手によって、または自分の感覚次第で「触り方が固定されてしまう」ということの怖さがテーマです。普通に学校卒業して、施術を「技術」として割り切ってしまうと、そういうことには気づかないでしょう? 結局、自分の触れ方次第で変えられるものは無数にあるわけで(実際は何でも変えられるわけじゃないけど)、同じ層ばかり見て、それで治らないものを「他の治療法や技法なら治るかも?」と追いかけても、たぶんそこに答えはないわけで、答えはちゃんと目の前にあったりするわけです。多くの技術を手に入れるより、ひとつの技術を正しく応用できた方がいい、というのが私の考えです。まぁ、使い方がよく分からないというヒトは、とりあえず「何も定めない・狙わない」という触れ方を多くやって見て下さい。大変だけど、あとで得られるものは多いでしょうから。

  次いで二つ目にやったお腹の「怖いやつ(笑)」。あれは「みんな誰でも自分の体をちゃんと感じてないんだよ〜」というのが出発点で、ズレが大きい人ほど怖さを感じます。過呼吸とか解離とか、体がないヒトならなおさら。まぁ、いざって時に便利な方法なので、いざって時に使えるよう身内相手に練習してみて下さい。

 で、三番目の拮抗筋。あれはやれば分かるけど、いくら反射機能が回復するとは言っても「現状の体なりに」という条件付きです。運動器バラバラとか、内臓ぐちゃぐちゃとかでそれほど反射機能が高まるわけはないので、足の反射機能を高めると、次はその反射に付いてこれない運動器や内臓の問題が表面化するだけ。つまり膝下を治せば膝上の問題が露呈し、膝上が整えば膝下の機能不足が表面化するから、そこでまた膝下の機能を向上させる。その繰り返しで体が本来の状態になっていくわけですね。長〜い道のりです(笑)。ただ、膝下への施術に拮抗筋の反射機能回復の施術を混ぜていくと、できることは格段に増えてくる筈です。「足が悪い時、他じゃ治らないけどここに来るとすぐ治るんだよね」と、患者さんに言われるようになって下さい。生き残るのが難しい時代になってきたからこそ、他にはない自分だけの武器を磨きましょう!

 あと、これは言い忘れなんですが、来年はお話したように「勉強会と練習会」という区分にする予定なので、塾生制度はなくなります。とはいえ、これまで塾生だったヒトは、一定のところまで感覚や技術を高めておいて欲しいわけで、本当は塾生の数人だけの勉強会をやりたいのです。ただ3月までは無理だし、4、5月も無理。時期ずれちゃうけど最初は6月かな。塾生以上、免状未満のヒトでその気のあるヒトは第2日曜を空けておいて下さい。よろしくです。

 


 

 R02/01/07 … 明けましておめでとうごいます

  いろいろと書いておきたいことがあり、このページを立ち上げたのですが、書くことが多く溜まったまま年を越してしまいました。昨年末には数年続けてきた水曜夜の勉強会が終了となり、自分の中では一区切りとなっています。あとは本年度の勉強会も三回を残すのみ。そうした中で「来年は勉強会をやるんですか?」との問い合わせも頂いています。結論は「やります」です。ただ、今年で「伝えたいことは全部伝えた」とするつもりでいますので、勉強会の形は大きく変える予定です。

 まぁ、長年指導をさせて頂いていると、その内容も最初の頃とは随分と様変わりをしていきます。また参加して頂く先生方も新旧でレベルが大きく変わるわけで、その中で基本と上級、基本と応用など、一応の区分を設けて対応させて頂きましたが、どんな技術も先を見ればキリがなく、またその中で伝えられることにも限りがあるものです。個人的には、ウチのスタッフでは当然というか、暗黙の了解になっている部分を参加者の先生方にお伝えできれば、そこが区切りだと思ってきました。その”部分”というのは、「ヒトを見て・扱う」というものです。分かりやすいのは「ウチの與那覇が行う施術」ではないかと思います。

 いまウチには私の他に與那覇とアキがいますが、二人とも沖縄出身で優れた感覚の持ち主です。どちらも大和を始めた初期から、知識や理屈抜きで「この人の体はこんな感じ・こうすればいい」というごく自然な施術の関わり方があったように思います。私は施術を理屈っぽく説明しますが、それらはもともと、そうした感覚に優れたヒトに、そうでない者が追いつくための術だと思ってきました。普通の施術者の体の捉え方って、「悪い・悪くないの二択」か、せいぜい「すごく悪い・悪い・悪くないの三択」だと思うのです。外から悪いことを判断したら、あとは治すのに必要な施術を行うだけ。そこに痛みや苦しさについての共感が乏しい。しかし敏感なヒトはそこを自分のことのように感じ、扱うわけです。自分のことのように思ってしまえば、自分が受けたら楽になるような施術をするだけです。しかし(私を含め)感覚の乏しい施術者であっても、胃の細部までを繊細に扱う施術を常とすれば、そこに伴う集中力は膨大で、結果として必然的に同調することになります。これなら感覚に優れていなくても、施術による体の同調が必須となり、治さないと自分が大変な思いをする。私がそうであったように、こうした施術の繰り返しで経験的に敏感な感覚が身に付いていく。そういう施術者の育成が私の大和の指導の根幹でした。実際、多くの先生方にそうした感覚を植え付けることは出来ていると思います。

 でも、結局は長くやってると…理論的・技術的なことばかりに偏ってしまうんですよね。肝心なことをどう伝えればいいのか分からないのです。そもそもヒトの考えなど十人十色なので、皆がそうである必要はないと思うのですが、大和はそういう場にしておきたい。ただ、前回の勉強会でそこの部分をわりとうまく伝えられたのではないかと思っています。自分でも取っ掛かりは見つかったかと。あとは残り三回の勉強会でこのことにも区切りをつけるつもりでいます。

 で、ですね、来年(今年の四月以降)に考えているのは、勉強会は「春・夏・秋・冬」の計四回。これは基本的なことを丁寧に教える比較的新しい参加者向けの内容です。そこでは基本で小難しいことはやるにせよ、あまり複雑なことはやりません。あくまで「大和整体を広める」ための基本を徹底する場にするつもりです。とはいえ、私は「基本の手技」というのは「芸術的なレベルにまで完成されたものであるべき」と考えているので、内容は基本とはいえ徹底したものにするつもりです。「大和のヒトはとにかく手指の扱いがうまい」。そう周りに言わせる内容にするつもりです。しかし多くの参加者にとっては「ただの復習」となってしまうので、参加人数も少ないことを前提としています。そうでないと感覚的な部分は伝わりにくいですからね。

 ただ、これだけだと免状持ちの先生方や塾生の先生に「さよなら」と言っているようなもので無責任となってしまうので、前述の勉強会の翌月に「練習会」を設けようと考えています。あくまで練習会で、これもこれまでやったことの復習になりますが、「二年以上参加の先生を対象」ということで、こっちはやってほしいことがあれば何でも練習の対象とします。こうすれば、長年来て頂いている先生方も「困ったことや知りたいことがある時は練習会に参加」という形にできると思うので、毎回参加の必要もなくなります。つまり勉強会は講義が中心で、練習会は実技が中心ということです。まぁ、三ヶ月に一度なら「4月・7月・11月・2月」が勉強会。練習会は「5月・8月・12月・3月」となりますね。本当はもっと減らす予定だったのですが、諸事情を鑑みるとこの辺りが妥協点かと思うのです。

 まだいろいろと書いておきたいことはあるので、また書きます。

 


 

 R01/12/11 … 応用定期勉強会が終わりました

  参加者の皆さま、お疲れ様でした。 今回は私が長年、うまく伝えることができずに苦心していた部分、その核心部分をようやく伝えられました。今回の参加人数が少なかったことにも助けられ、我ながら会心の出来だったと思います(笑)。今回参加して頂いた先生方があの感覚に慣れ、勉強会の中で私と感覚を共有してくれると、それが周りにも自然と伝わりやすくなると思います。あの多面的に体を捉える感覚(キュビズム)は、次回の定期勉強会の最初にもちょっと復習するつもりですが、普段から練習しておいて下さい。

 そもそもあの感覚は、私が思うに、上の先生方では当たり前に使っているものです。どの層であれ、どの層のまとまりであれ、自在に触れる(アクセスできる)わけです。ただそのほとんどはもともと敏感なヒトが、トップダウン的な感覚からその領域まで達することで扱える場所みたいなもので、そこをトップダウン的な技法の中で指導するのは非常に難しく、「分かるヒトは分かる」となりやすい部分です。私の場合はそこを「ボトムアップなら最初からそこを扱える」と考えているわけです。そしてあれは「治す方法」ではなく「ヒトを理解する術」なので、あの方法を通じてヒトへの理解が深まることが、そのまま日々の施術の幅を広げることになるわけです。

 ヒトが誰しも内部に持つ「(層の)分離」という感覚。そしてこれを「統合」させること。今更ながら、これがこれまでお伝えしてきたもの全ての背景ということですね。そこに「層に付き合う」という考え方と、「層は無視してただ統合する」という考え方の二つがあるわけで、これをうまく使い分け、かつ噛み合わせることで「ほどよい妥協点」を見つけて下さい。最初はこれまで見ていた体が多層に広がり、何をどうすればいいのか収集が付かなくなるかもしれませんが、「体に正しい答を見つける」のがトップダウンなら、「体にほどよい妥協点を見つける」のがボトムアップだと思うので、その曖昧さを楽しんで貰いたいと思います。「ヒトならではの曖昧な答え」、その扱いに長けるのが大和施術だと私は思っています。

 ちなみに今回はビデオ撮っておいたので、興味があれば、定期勉強会に参加の先生ならどなたにも販売しますよ。

 


 

 R01/11/15 … 定期勉強会が終わりました その2

  この間の勉強会では、足の重要性からその流れで肘のマニアックな、とても定期で出すべきでない内容となってしまいました。まぁ、あの状況から「じゃあ基本の押し方」もないでしょうし、やむを得なかったと思っているのですが、次回の定期からは、今回の足の重要性を踏まえた上での基本的な施術に戻るつもりです。ただ、基本的な施術とは言っても、以後は先に書いた「混乱→安定」を前提とするので、単純な内容でも「そこで見える景色がヒトそれぞれで違う」ということが前提となります。たぶん、前回に伝えたかったのはここなんですよね。

 結局、足が安定して体の機能を引き出せるようになると、単純な施術でもそこで可能となることの幅が大きく広がる。長年施術をやっていると、最初の頃のようには日々の成長が望めなくなるわけですが、その壁を大きく越えるためのひとつの方法が「地味な足の安定」なわけです。ただ、この足の安定も、前回お伝えした訓練法などを「自分でやって頑張って下さいね」では芸がないわけで、勉強会での施術の練習自体がそこに直結し、先に進みやすくなることが重要だと思っています。勉強会という場の中でみんなの安定に関わる感覚が向上し、それを共有することでで、「それがき当たり前の場」となることが、当座の勉強会の理想形だと思います。

 本年度の残りの定期勉強会は、こうした方向性で進むものとご了承下さい。

 


 

 R01/11/12 … 定期勉強会が終わりました

 今回は台風で日程が変わったものの、「定期勉強会の後期の初回」という位置付けでおりました。内容的には定期の基本的な施術とは言い難いものになってしまいましたが、とにかく今回伝えたかったのは「改めて足の重要性」です。自分自身がこのところ色んな経験をしている中で、ようやく「足の重要性」について、なんとか説明ができるだろうと思えたからです。最近はよく患者さんにも、左足が使えるようになったヒトに「これがようやくレベル1で上を見たらキリがないんですよ」とか、「足を鍛えるのは年齢に関係なくレベル100まであると思って下さい」とか話しています。膝上を使って「立つ」限りは重要なのは腿の筋肉。そしてそこで必要となるのは筋肉量。しかし膝下を使って立つ限りは重要なのは下腿から足先までの筋肉・腱で、必要となるのは動きの質(神経の訓練度)です。大きな筋肉を動かす強い神経反応ではなく、その細部を細かく動かす緻密な神経反応。これは「丁寧な動き」でしか鍛えることができないもので、積み重ねた神経反応は年齢で衰えることがありません。ただ実際には、個人的に70歳台をピークとして、80歳を境に衰えることが多いようですが、これは別の理由があるのだと思います。70歳である領域まで達したヒトでは、以後に「動く」ことの意味や必然性自体が大きく変わってしまうような…。ともかく、そこまでは誰しもが鍛え続けて機能を向上させていくことができるわけです。

 ただ、こうした「強い足」について、頭ではなく体で実感して貰うのは難しいと思うわけで、今回の勉強会の目的はそこにありました。通常の施術で得られる足の機能向上や安定感、その先にある「扉」を開くことで、ようやく「レベル1」となるわけです。そもそも体・脳の機能というのは、下半身の安定を土台としています。体そのものが潜在的に抱えている機能というのは極限的に高いわけで、ただ私たちは誰しもそれをうまく引き出すことができないだけです。そして、それを引き出すために重要となるのが「体の安定」。私たちが日常出会う、また自身が抱えてる緊張というのは、根源的に考えれば「体の不安定性」に起因しています。不安定な体を倒れないようにするために多くの緊張(ブレーキ)を必要とし、そうした体で動くためには更に膨大な緊張が必要となります(ブレーキをかけつつアクセルを踏む)。こうして、ただ「立っている」だけで忙しくなってしまう体では、内臓の機能は日常的に低下し、それら諸々を踏まえて絹する脳の機能も非常に不安定となります。これでは体の機能が「混乱」を前提に作動しているようなもので、「体本来の性能を引き出す」以前の問題です。しかし、足がようやく「レベル1」に達したとすれば、先の「混乱」の中に「安定」という光明が見えてくるわけで、そこから先は「体本来の機能を解放する」という作業になっていくわけです。

  「混乱」の中に「安定」を、そしてその「安定」の比率が「混乱」を上回った時、おそらくそこで見える景色はそれまでと全く違うものとなり、それが現代人の多くが覗いたことのない景色だと思います(昔のヒトの多くには見えていた景色)。個人的には、私たち施術者がこの先も努力を続けて何かを得ようとするなら、目指すべきはひとつの指標はこうした景色なのだと思いますし、大和に長く関わってくれている先生方には、そうあって欲しいと思うのです。

 


 

 R01/11/2 … 扉 その二

 もともとは古武術の師の言葉が発端です。「日本は…(いろいろ歴史の話…)でとっくの昔に中国に占領されてるんだ、だから単一民族なんかじゃないんだよ」これがひとつ。

 もうひとつは「日本は大事なことを感覚的に伝えるだけで言葉で残してこなかったが、中国はちゃんと言葉に残して分かるようにしてきたんだ」ということです。

 太極拳を通じていろいろ調べれば調べるほど、確かに中国はちゃんと言葉にしてる。もともとは同じ民族なようなものだし、それが一方でちゃんと言葉に残されているなら、それはそれで有難いことでは? それが理解できたら、その上で中国の文化と日本の文化を区分すればいいんだし…。でもそれって、すごく大変な作業になるわけで、この時点で「ほんとにそこに足を踏み入れていいのか?」と躊躇してしまいます。

 しかしそこは、何事にもタイミングというのがあるわけで、 ちょっとした会話から「それ、大和医学の資料の言葉だよ」というやりとりがあり、久々に大和医学の資料を引っ張り出すことに。大和医学ももとは中医学と同じで、その両者の区分というか、境界が重要なんですが、そこは「よく分からない」という理由から、放っておいたんですよね。なんか変なタイミングでリンクしてしまった。…これは…やっぱり…やれってことか?

 で、現在に至るわけです。

 


 

 R01/11/2 … 扉 その一

 我ながら驚きなのですが、このところ中国思想ブームです。これまで大和整体を背景に「日本古来」のものに拘ってきました。選民主義といった思想はないつもりなのですが、それでも日本という国には他の国々にはない独自の文化や思想があるのは確かなわけで、そこでに重きをおいてきたわけです。昔は体のことを知りたくて琉球空手や合気道をかじりました。そしていま、齢50を越えて、また武術を始めようとなった時にも選んだのは古武術でした。そこで出会った師の話す言葉は非常に魅力的で、その多くは私が整体を通じて見ている身体観を肯定してくれるものであり、またその先を教えてくれるものでした。

 正直なところ、これまでの自分の身体観に似た考えや言葉を他で聞いたことがなく、「本当に正しいのだろうか?」という疑いはあったので、それが(ある一人のヒトに)肯定されただけでもひと安心です。またその先の話というのも私にとっては非常に分かりやすい内容で(多くの人には突飛に聞こえるようですが)、これまでの内容に区切りを迎えたいま、新たに大きな扉が開けた思いでした。

 しかしこの扉が…だいぶ大きいのです。扉が大きいということは、その先に広がっている世界が広いということで、一息ついてみると、どこから手をつけていいのやら、途方にくれてしまいました。昔の人の体や感覚についての資料は乏しく、どこにその手掛かりがあるのやら、見当もつかないわけです。また、それとは別に、古武術を自分の体で実践しようにも、長年動かなかった体です。まして武術から15年以上離れたいまでは、まともに体が動くわけもありません。かといって…いまからまた空手や合気道を再開? なんか気乗りがしません。琉球空手がどうとか、合気道がどうとかではなく、いまさら一般的な武術の「若いヒトに混じってガツガツ」というのが合わない気がするわけで、そこで選んだのは太極拳でした。個人的には「中国製品」にいいイメージがないので、中国モノに手を出すのは抵抗感があったのですが、そこには「老人に人気のある太極拳」「いまから始めれば10年後にはヒーロー?」という不純な動機もありました(笑)。

  最初は教わる場すら定まらずの四苦八苦でしたが、なんやかんやと、気づいたら相応に恵まれた環境にはいるようで、無事に入り口には辿り着いたと思います。そしてそれが同時に、中国思想ブームのきっかけに…。

 


 

R01/11/2 … はじめました

 これまで勉強会の関係で、長らく資料作成を続けてきましたが、ちょうどいまがその「転機」なのだと思います。これまでやってきたことに区切りが付き、同時にこれから覚え、理解しないといけないことも山積み。正直なところ、頭の中は見事なまでにぐちゃぐちゃです(笑)。こういう時はそれを言葉に整理していくのが私なりの整理法なのですが、あまりに私的な内容だし、ブログで公にするほどのものでもなし。そこでこんなページを設けたわけです。整理がついたら消すかもしれませんが、まぁ、初めてみます。