十の力を十のまま伝える

 

 私たちの何かに対して「力を出す」という時、それが自分では「十の力」であると思っていても、実際の対象に伝わるのは随分と小さくなるものです。単純な例としては格闘技などの「殴る」という行為が分かりやすいのですが、例えば私たちが壁を殴ったとすると、壁は固く動かないので、その力は私たちの体に跳ね返されてしまいます。これをさらに詳しくみれば、私たちの全身の関節には「遊び」があるので、ボクシングなどの相手が「人」である場合でも、殴る時に発するのが「十の力」であったとしても、当たった瞬間にその力の多くは、自分の全身の「関節の遊び」で吸収してしまうことになります。これは私たちの施術でも同じことで、私たちが「十の力」で押したつもりでも、その多くは自分の体で吸収してしまっているものです。

 

 「殴る」ということを例にすれば、「十の力を十のまま伝える」ことを可能にする方法が琉球空手にあります。先の「三戦(サンチン)」のような体の固め方では、自身の関節で力を吸収してしまうようなことはありません。他の力が逃げてしまう要素としては「拳が当たった瞬間」に自分の体の軸そのものがズレることですが、これは訓練によって下半身が充分に安定することでほぼ避けることができます。仮に「十の力を十のまま伝える」ということができれば、その時の破壊力は通常の殴るという行為の比ではなくなります。この「力が逃げる」「力が逃げない」というのは、力の量の問題ではありません。僅かな力でもそれが「一切逃げない」ということは特別な意味を持ちます。「九割九分」と「十割」の間には、言葉では説明できない大きな隔たりがあるものです。ほどのこうしたことから、昔、空手の代名詞に「一撃必殺」という言葉が使われましたが、これは「十の力を十のまま伝える」の理想型を表す言葉です。

 

 術式の一の体の操法も、同じく「十の力を十のまま伝える」ことを基本としています。「理想」ではなく「基本」としたのは、施術で用いる範囲の力や動きなら、それが実践できて当たり前と考えるためです。全身の関節から遊びをなくし、その動きを完全に制御した状態から施術を行えば、そこで用いる力を自身の体で吸収してしまうことはなくなります。そしてこの「十の力」というのは、そこに揺らぎがない「正確な動き」であることが重要な意味を持ちます。その完成度が「十割」でない限り、その不足分が「動きの正確性」を損なうことに繋がってしまうため「正しい動き」とはなり得ないのです。仮に体の大きな男性が不十分な状態で行う施術と、体の小さな女性がこれを正しく行った場合を比較すると、受け手の感じる「力の強さ」というだけでも決して劣ることはありませんし、またそこから得られる効果の違いは比較にならないものとなります(変化の性質そのものが違うため)。

 

 施術というのは「精度」が命です。その施術が正確であればあるほど効果は高まりますし、一定以上の正確さを伴わなければ得られない変化というのも多くあります。「十の力を十のまま伝える」というのは決して「強い力を発揮する」ための方法論ではありません。触れる程度の弱い施術であっても、それが「十の力を十のまま伝える」ということには大きな意味があります。強い施術の中で全身の動きを正しく制御するということは難しく、弱い術では簡単だと思われやすいのですが、実際には逆です。強い力を用いる方が関節を構成する骨と骨の位置関係を把握しやすく、より正確に体を動かすことが容易になります。これが弱い施術になると、誰しも「感覚的な制御」に頼りがちになるため、そこに「思い込み」が加わってしまうものです。「機械のような正確性を以て弱い力を制御する」ためには、触れる程度の行為であっても「十の力を十のまま伝える」ことができるかどうかが、「感覚的な思い込み」ではなく「客観的に正しく体を制御する」ための重要な指標になるのです。