体から人も変わる

 

 これは私が勉強会の中で口癖のようにいう言葉ですが「人は変われるか否か?」という問題です。意識と体が密接に関係していることは誰しも疑いがないと思います。しかし頭でそうは思っていても、実際の施術になると「意識は意識」「体は体」と別々に考えてしまいがちです。ただ、その背景には現代人の多くで「意識(頭)と体の分離」が起こっていることが多いためで、そうした人を「普通」と捉えていると、いざ施術で「意識の状態に体が敏感に反応する人」に出会うと、その反応の複雑さ、無軌道さに戸惑ってしまうものです。これまでの説明の中でも、そうした両者の関係性を正常に戻すことの重要性(頭と体が一体になり機能する)については触れてきました。両者の関係性を正せば正すほど、体が変わることはそのまま、その人自身(その人の意識)が変わることに直結しているのだと実感します。ただ、そう実感すればするほど、逆に「その人を変える」ために「体を変える(意識ごと体を変える)」ということの難しさを痛感させられます。

 

 誰しも体に多くの不要な緊張を抱えながら生活をしているものです。それが時として過剰な緊張や、身体機能の低下を招き、愁訴や疾病に発展するわけですが、そうした緊張の最も根幹にある要因は、その人自身の意識のあり方です。私たちは聖人のように生きているわけではないので、その意識にはどうしても「偏り」や「歪み」があります。それが緊張を通して体に反映されることで、その人なりの姿勢や動きの「癖」となるわけですが、それが一定以上に悪化しない限りは問題はなく、いわば「その人の個性」で済まされてしまうものです。しかし、これが一定以上に悪化して体の機能を損なう「悪癖」となった場合は、それを正す必要が生じます。これが私たちの見ている「愁訴・疾病」の背景にあるもので、整体とは施術を通して、または愁訴を通して、そうしたものを整える療法なのだと思います。

 

 もちろん事故やケガなど、緊張の原因に対して「本人に非がない」場合もありますが、体には少々の機能異常(トラブル)に対して、それを補うだけの「機能的な余裕」が残されているものです(臓器を摘出しても生活に支障がないなど)。よほどの問題が起こったのでない限り、通常はたいていのケガも日常生活レベルに支障がでない範囲にまでには回復するものです。それが回復しないというのであれば、やはりそこに潜在的な「悪癖」の関与を疑わざるを得ません。

 

 ただし、体に愁訴や疾病などの機能異常として現れている「悪癖」といっても、元々はその人自身のあり方の延長です。これを変えようとするということは、その人自身のあり方を変えようとすることと同じです(ここでは相当の変化を必要とする重篤な愁訴や疾病などをイメージして下さい)。体の異常も、その表面的な部分ならいくらも変えることができるのですが、それがその人のあり方、その根幹に関わっている部分を扱うとなると、簡単には変わってくれないものです。よほど自分が好きな人でもなければ、誰の中にも「変わりたい」という意識はあると思います。しかし実際に「変わるか否か」の場に立つと、変わることを拒むものです。

 

 私はよく人の「変わる」という意識を「車の買い替え」に例えます。多くの人は「変わる」ということを、自分の中の好きな部分は残したまま、嫌いな部分だけを変えることだと捉えているものです。しかしいい部分と悪い部分、双方をひっくるめての「その人」なわけで、一面だけを変えることは「その人が変わる」こととは何の関係もありません。よい面があっての悪い面(双方で釣り合いがとれる)なわけで、一方をそのまま残してしまえば、またもとに戻ってしまうだけです(一時的に変わった気がするというだけ)。「変わる」ということは、車の買い替えが「前の車」がなくなって「新しい車」が届くように、「前の自分」が消え去ることで「新しい自分」になるだけです。これは体の機能についても同じことがいえます。

 

 大和の施術はこうしたことを踏まえての「体を変える(人を変える)」ための施術です。まずは頭(意識)と体を一体として機能させること。そうして体の変化がそのまま意識の変化に直結する状態を作る。これで体の変化が意識の変化にそのまま繋がっていくことになるのですが、先へ進むとどうしても、そこから前へと進めない「壁」に突き当たります。この壁が本当の意味での「変わる」の境目であり、これを越えなければ治せない愁訴や疾病というのは多くあるものです。そして、これは心身いずれか(もしくは両方)に「相応の苦しみ」を伴わなければ越えられない厚い壁です(これを体の側の苦しみに置き換えるのが手技療法なのだと思います)。施術によって「人を変えることが出来るか否か」というのが、大和の施術にとっての最大のテーマとなるのです。