体をモノとして扱う

 

 施術で体を扱う時、基本の段階では「人として扱わずにモノとして扱う」よう説明します。これはたいていの人が「人の体を触れること」「人の体を施術で変えること」に無意識の遠慮や抵抗感があるためです。これは単純な例ですが、例えば「恐い男性」を相手に女性が施術を行えば、そこにはどうしても「無意識の怯えや警戒」が出てしまいます。こうした状態で施術を行ったのでは、治るものも治りません。こうした顕著な例以外でも、誰しも僅かながら「人に対する抵抗感(警戒心)」というものを持っていますので、そうした部分が「自然な施術」の妨げになってしまうのです。

 

 実際に「体をモノとして扱う」といっても、簡単なことではありません。この練習にはよく実際にモノ(施術の枕やペットボトルなど何でも構いません)を持って貰い、その感覚が残っているうちに体を触れるという方法を用います。実際にやてみれば分かることですが、私たちがいかに「人」を触れる際に余計な意識を介在させてしまっているかがよく分かります。これは体を触れる時に「モノとして見ているか」「人として見ているか」の違いで、体を触れる時に「その人」を強く意識してしまうと、施術者の主観的な感覚が施術に強く反映されてしまうということです。これに対してモノとして扱う感覚というのは体を客観的に見ているからこそ可能となる施術です。

 

 施術はその対象が「筋肉」であることが多いものですが、筋肉というのは非常に敏感な反応をする組織です。そのため、手技の内容の善し悪しに関係なく「勝手に反応してくれる」ため、その扱いがうまくない人でもそれなりの効果が出やすい対象です。仮に施術者が「体にマイナスとなる施術」を行ったとしても、筋肉はそれに対して防御なり修正なりの反応をしてくれるので、施術の悪さがそのまま筋肉の反応に繋がることはありません。意地悪な言い方をすれば、良くも悪くも刺激を入れているうちに治ってしまうことが多い組織です。

 

 これに対して「骨」は対称的で、そもそも骨は筋肉を介してしか動くことができないため、「勝手に反応してくれる」ことはありません。これは言い換えれば、正しい施術を行えばその通りに治り、間違った施術を行えばその通りに壊れるということです。こうした対象では、施術者が施術に余計な意識を介在させることなく正しい施術が行えているか否かが、明確に分かるものです。特に「骨」は、その扱いをモノとして徹すれば徹するほどよく反応をしてくれる組織です(これはあくまで基本の段階の話で骨にも独自の動きや反応があります)。

 

 体に「その人」を強く意識してしまって行う施術というのは、その都度のお互いの関係性の中で施術の内容・効果が大きく変動してしまいます。これに対して「体をモノとして扱う」ということは、相手の状態や互いの関係性などに左右されることなく、常に同じ施術を行うことができるということです。それが必ずしも正しいというわけではありませんが、施術を始めた初期にそうした感覚を持つことは重要な意味を持ちます。

 

 「体をモノとして扱う」ことができるようになったら、次は意図的に「体を人として扱う」ようにしていきます。これは感覚の切り替えですが、体をモノとして扱う感覚に慣れてしまえば、その時点で相手に影響を受けることは少なくなるため、体を通してその人自身の状態も冷静に観察することができます。体というのは「モノ」であり、同時に「心のある生き物(人)」でもあるので、そこから「モノとしての部分」だけを切り取ってみるのは不自然なのですが、施術者が相手の「人」の部分に強く影響を受けるようでは、まともな施術になりません。そのために、まずは体を「モノ」として扱い、それができるようになったら体の反応に現れている「人」としての面を冷静に観察できるようになるのだと思います。体を扱うにあたっては、こうした「モノとしての扱い」「人としての扱い」の双方を心得ていると、時と場合によって使い分けをすることで、施術の質が大きく向上することになります。