手の感覚で覚える

 

 大和整體にとって一般的な解剖学は些かに邪魔になります。もちろん体に対する多くの知識は持っていた方がいいのですが、それが「先入観」となって体を触れる障害になるのでは困ってしまうのです。先入観というのは自分の感覚の中に「つもり」を作ってしまうものです。これは味を例にした方が分かりやすいと思いますが、例えばご飯を食べる時、誰しも無意識に「ご飯の味」を連想しているものです。これが先入観となって、実際にご飯を食べた時に、毎回常に微妙に違うご飯の味の違いに気づけないものです(よほど違いが大きい場合には気づきますが)。これは対象に対する「集中」の問題で、私たちは先入観が入っていると対象に充分な集中ができません。よくテレビで目隠しをした人に「食べたものが何かを当てて下さい」といったゲームがありますが、こうした状態では食べる人に「先入観」はありません。それが何であるか、味覚に集中することでそれが何かを感じ取ろうとします。これが本来の「味わう」という感覚であり、日常の食事でこうした味覚に対する集中ができている人は殆どいないと思います。

 

 これはそのまま私たちの「触れる」ということにも言えることで、私たちは対象に触れる以前に「触れた感覚」という先入観を持って接しているものです。これは人の体についても同じことで、見た時の先入観がそのまま触れた時の先入観になってしまい、その結果として「人それぞれの触れた感覚の僅かな違い」に気づきにくくなります。特に私たちには「解剖学」による先入観が強いため、およそ「素直に体に触れる」ということができなくなっているものです。例えば肝臓なら「肝臓を触れた実感」を知らない人が、先に解剖で培った「肝臓のイメージ」という先入観を持って触ってしまうと、実際の肝臓の詳細な感覚を掴むことなく「触っているつもり」となってしまうのです。

 

 そのため、大和整體では最初に「一旦解剖を忘れて手の感覚で体を覚える」としています。そもそも大和整體は「体の全てを繊維構造として捉えて繊維の隙間を縫って深部を直接に触れる」ということを基本とするので、通常より遙かに多くの深部組織に直接に触れることができます。体というのは解剖学による先入観をいったん捨てて「触れて・感じる」ことに徹してみると、筋肉も骨も内臓も、驚くほど解剖学のそれとは違って感じられるものです。それは「体が生きている」ためで、同じ構造体でもそこに「力がある・ない」というだけで全く違う形状・質感に感じられたります。こうした感覚の違いを生み出す要素はベクトル、エネルギー、圧力でも何でもいいのですが、解剖学の先入観が強ければ強いほど感じ取れなくなってしまうものです。しかし、感じることに敏感になっていくと、次第に手で感じる「体の印象」は、解剖学で覚えたはずのそれとは全く違うものに感じられるものです(筋肉・骨・内臓の形状や位置関係など)。

 

 この説明には「ベクトル」や「圧力」が分かりやすいと思いますが、例えば眼をつぶってある臓器を触れた時、その臓器に下方への強いベクトルが生じていればそれだけで実際の位置以上に内臓が下がっているように感じます。また、内部で圧力の高まっている臓器では、そうでない臓器に比べて著しく大きく感じられるものです。もっと単純な例なら、右足が力強く、左足が弱い場合にはその圧力差で右足は太く大きいものに、左足は細く小さいものに感じられます(私たちは感覚を鋭敏にすればするほど僅かな違いを大きく感じ取ってしまう)。これは私たちが感覚的に体の構造を捉えた結果であり、これによって体に見た目の姿や解剖学のイメージとはかけ離れた印象を持ったとしても、それはそれで内部で起こっていることを感覚的に、かつより詳細に捉えた、ある意味では体の本当の姿です。

 

 これは言って見れば、体というものは「物質としての体(客観的な感覚)」と「生命体としての体(主観的な感覚)」という二つの姿を持っているのだと言えます。体の不調の原因がほんの僅かな異常であった場合は、通常はそれに気付くことができません。しかし、主観的な感覚によって些細な動きの違い、感覚の違いを拾えるようになれば、そうした問題に気付くことも可能になります。これは主観的な感覚ゆえに、信憑性に欠ける可能性は多いにありますが、私たちの施術が自身の感覚を頼りに行わざるをえない限り、そうした主観的な感覚を訓練し、拡張していくことには大きな意味があります。

 

 ただこうした感覚も、あるところまでは見た目の姿や解剖学のイメージとはどんどんかけ離れていくものですが、それが一定の段階に達すると今度は見た目の姿や解剖学のイメージにまた近づいていきます。これは主観的な感覚が充分に訓練されたことで、同時に客観的に体を捉える余裕が生じたために、体を双方の観点から捉えることができるようになった結果です。こうなると体を主観的(生命感のある存在)にも客観的(物質としての感覚)にも捉えられるようになり、見えてくるものも多くなります。

 

 重要なのは「治すこと」ではなく、まず「体と仲良くなること」です。例えば手根骨の一個一個までを、自分の触れた感覚なりで理解する。こうした作業を全身に行っていくことで、初めて実際の体に即した「身体イメージ」が持てることになります(人それぞれの個体差までを実感する)。それでも、そこに「慣れ」が加わってしまうと、やはりいつしか「触っているつもり」になっているので、それを常に修正していきます。治療において「触っているつもり」ほど恐い勘違いはありません。