体の二次変化 1

 

 体の二次変化については基本の施術で扱う内容ではないので、ここでは概要としての説明に留めておきます。まず、私たちが自分の体を意識するという時、理想はその全ての組織を均等に意識することです。しかし私たちの体の感覚には部位ごと、対象ごとに偏りがあるため、どうしても「意識しやすい部位」ばかりに目が向きがちです。一般的な人の意識が向きやすいのは、体を「体壁系」と「内臓系」で区分すれば体壁系となりますし、同じ体壁系でも首から下の「体」と「頭」を区分した場合には体に偏ります。たいていの人の体の意識は、この頭部を除いた体壁系に集中しているものです(ここでは体壁系から頭部を除いた全身を「体部」と定義します)。全身を均等に意識しようと思っても、まず体部の感覚が優先されてしまうために他をうまく感じることができないのです。

 

 こうした本人の意識が集中している対象について、私は「身体組織の活動」を音の大きさ(ボリューム)に例えて説明しています。体にはいろんな部位や組織がありますが、それぞれの活動の強さをここでは「音の大きさ」とします。体の中ではさまざまな組織の「音」が鳴っているとして、その中でも骨格筋の音は際立って大きいためによく聞こえるのですが、内臓の平滑筋など、小さな音は骨格筋のその大きな音にかき消されてしまい、よく聞こえないということです。他の部位や組織の「音」が聞こえるようになるためには、まず「体部の音」が小さくなる必要があります。これは体を整えていくことでその活動に偏りがなくなり、結果的に交感神経の活動が抑制されればよいということです。体部の音がある程度まで静まり、一時的に「無音」に近い状態になると、そこで初めて「他の音」が聞こえるようになります。その他の音をここでは「頭部」「内臓」「心臓」という三つの部位(活動単位)に区分しておきます。

 

 これは理屈よりも経験的な部分の説明となりますが、体部の音(活動)が穏やかになり、それが「頭部」のそれを下回った瞬間に、私たちの体の意識はそれまでの「体部中心の感覚」から「頭部中心の感覚」へと切り替わっていきます。それまで「体部」に意識が集中していた理由は、その活動が強く、かつそこに不均一さがあったためです。それが活動の抑制とともに均一となると、「動き」のない体部に意識を集中させることはできなくなり、より動きを感じる「頭部」へと意識の対象が移るのです。これは「人は何もない壁を凝視し続けることはできないが、壁に一点のシミがあるだけで凝視を続けることができる」ということと同じです。体部に「シミ(ここでは緊張や変化)」があればそこを見続けていられるのですが、それがなくなってしまうと見続けていることができなくなります。体部の次に人が意識しやすい「体の活動単位」は頭部であり、体部が頭部以上に穏やかな状態となれば、必然的に体へ集中していた意識が頭部へと移っていきます。

 

 体への意識が体部から頭部へと移った初期の状態では、体部は全体がほぼ均一に機能しているために感覚が薄まり、頭部の状態ばかりが気になります。例えば「頭痛」というのは「頭のこの辺りが痛い」など、体部で感じる痛みに比べてその範囲や部位が曖昧なのが普通なのですが、この状態では「頭部の○○が痛い」など、その感覚がより明確になります。この「頭部中心の感覚」でも、一定の時間が経過すると体部の症状が出始めてくるのですが、この場合の体部の症状というのは「頭部の状態が体部に反映されたもの」であるため、体部へと施術を行うことにあまり意味はありません。

 

 体部に意識が集中している状態というのは、体部への施術では正しい効果が得やすいのですが、それ以外の「頭部」「内臓(心臓を含む)」には効果が薄くなります。これは「その人の意識が集中している対象には施術の効果も高いが、そうでない対象には効果が薄い」ということです。本人の意識が「体部」に集中している時に「頭部」や「内臓」に施術を行っても、その効果のほとんどは体部の変化として反映されてしまいます(頭部や内臓の深部機能にはほとんど反映されない)。その証拠というわけではないのですが、体が「体部主体」の時に頭部や内臓にいくら施術を行っても、頭部の時期になれば「治したはず」の問題がそのまま浮き出てくるため、またやり直しとなります(内臓も同じ)。つまり頭部への施術は、この時期(以降)にのみ正しく頭部に作用するということです。