一段階上の機能へ

 

 既存の恒常性の中での機能を壊し、それを一段階上で機能させるといっても、実際にはそういう施術の方法を用いるというわけではありません。これは技術的なことよりも、意識的な要素で可能になることです。仮に不調に陥っている体を施術で段階的に整えていったとして、その恒常性が機能できる限界まで行き着いたとします。この状態の体は以前と比べてより正しく機能しているわけで、以前の「悪い状態」と比べてればその身体機能にはだいぶ余裕がある筈です。そして、この状態を維持できれば(その間に無茶なことをしなければ)、体には相応の「余力(体力的な余裕)」が蓄積されることになります。

 

 ある機能の範囲内で恒常性を構築している体が、一段階上で機能をするためには相応の変化が必要なわけで、そこには「相当量の体力」が必要となります。仮にこの「変化するために必要な体力」を蓄えることができれば、その時点で体は一段階上で機能できる条件が揃うのですが、ほとんどの人はなかなかその体力を蓄えることが出来ないため、一定の恒常性の範囲内でしか体を機能させることが出来ません。しかし上述の状況を作り出し、そこで必要な体力を蓄積することが出来れば、体は自ら既存の恒常性を脱して一段階上で機能しようと変化を始めます。ただし、これが「落とし穴」なのですが、体が既存の状態を脱して大きく変化を始めると、そこに待っているのは「著しい不調」です。施術者からすれば、それまで非常に好調だった体が、原因不明の絶不調へと変わるわけですから困ってしまいます。しかしこの不調は「変化の過程(生みの苦しみ)」であり、この過程をうまく切り抜けることが出来れば、体は一段階上の機能の中で新たな恒常性を構築することが出来るようになります。

 

 体が一段階先へ進むか否かは体が決めることなので、施術者に出来ることはその準備までです(体力を蓄えられるまでに体を整える)。体の変化を施術によって実践することは出来ません。しかしいったん変化が始まると、その変化が途中で止まってしまわないよう「変化の方向を導く」という仕事が加わってきます。体がいったんこうした変化の状態に入ったとしても、その状況で本人が「余計なこと」をしてしまうと台無しにしてしまう可能性があるからです。これは施術者にも言えることで、そこで「余計なこと」をしてしまえばやはり変化を止めて台無しにしてしまいます。例えば変化の過程で必然として生じるさまざまな愁訴を「治そう」などとしてしまえばそれだけで台無しです。その過程で生じるさまざまな変化のうち、どれが正しい変化であり、どれが誤った変化なのか(起こるべきではない変化)、これを見極めて必要最小限の手助けを行いつつ、体の変化を誘導しなければなりません。

 

 施術を通じて起こる体の変化には「日常的な変化」と「非日常的な変化」があります。日常的な変化は私たちが日々の施術で経験しているようなものであり、非日常的な変化とはそれとは関係なく、体自身が一定の目的を以て行う大きな変化です(体が大きく変わる時の変化)。この非日常的な変化には、その変化の過程で経るべきさまざまな反応があり、そうした反応を経るからこそ、体の機能が根本から大きく変わっていきます。体がそうした段階に入ったら、余計な手出しはせず、体が誤った方向へ進みそうな場合に限って修正としての施術を行っていくに留めます。どういった反応が正しく、どういった反応が誤りであるかは経験的に知るしかないものですが、これを理解していれば体を速やかに次の段階へと進めることができ、知らなければ慌ててその反応を止めようとして、結果的に変化そのものを妨げてしまうものです。