体の感覚を強める

 

 体には「体自身の意思」というものがあります。これは「体自身が自らの状態を正しく保つ」ための働きなのですが、例えば全身が歪んでいる中で、足部(下腿部含む)だけの機能を理想的に整え、安定状態にしたとします。この時、体の中では「歪んだ全身」を維持しようとする力と、「安定した足部」を維持しようとする相反する二つの力が混在することになります。体は通常、施術という「外部からの変化」に対しては、それを「侵襲性の刺激」と捉えて打ち消そうとします(全部が無理なら可能な限り)。しかし施術による変化が体自身にとって安定した状態であり、それを「快感覚」と感じた限りは、その状態を自ら維持しようと働くのです。体に二つの力が混在した場合、最終的には、双方の間で折衷案とでもいうべき「中間のバランス」に落ち着くものですが、こうした施術を繰り返していくと、周囲の歪んだ状態とは関係なく、足部に独自の安定状態を保つことができるようになります。この時、足部では「自らの状態を正しく保つ」ということが実践されることになります。

 

 私たちの体には「私たちの意識(潜在意識)」と同時に「体自身の意思」が混在しているものです。大抵の人は「自分の体は自分の意識によって動くもの」と考えており、「体自身の意思」といっても実感がないと思います。しかしこれは、大抵は場合「意識」の力が勝ってしまい、「体自身の意識」が押さえ込まれていることによります。「私たち(の意識)」が余計なことをしなければ、体は本来、自らの状態を正しく保つことができる仕組みを持っているのです。先の「足部の安定状態」とは、この「体自身の意思」を強く作用させた結果であり、それ故に安定状態を維持することができます。ただしこの場合、足部は「体自身の意思」を優先に機能し、他の部位は「私たちの意識」を優先に機能している、いわば体が二つの意思・感覚で二分されているような状態です。これだけでは体にとって不都合な状態なのですが、大和整體の施術の目的は、この「体自身の意思」を全身へと反映させていくことにあります。

 

 大抵の人が「自分の体は自分の意識によって動くもの」と考えているのは、意識と体の結びつきが強すぎることによります。これを私たちは「意識と体の関係が過剰になっている状態(互いが絡んでしまっている状態)」としています。しかし、こうした感覚に慣れてしまった体に対して、それを正常に戻すことは難しいものです。そのため、体の一部にでも「体自身の意思」で動く部位を設け、その感覚を体感して貰うことには、全身がそうした感覚へと傾きやすくなるという点で大きな意味を持ちます。簡単には身体各部に生じている「不要な緊張」を除去し、一時的にでも緊張のない安定状態を作ればこうした状態を作ることはできるのですが、それにはやはり脳から遠い「足部」を優先させた方が効率がよくなります。

 

 体を下位から順に「体自身の意思」で機能できるようにしていく施術を、私たちはよく「陣取りゲーム」になぞらえて説明します。体の中で「本人の意識」によって緊張したいという領域と、「体自身の意思」で弛緩による安定状態を維持したいという領域を混在させ、後者の領域を広げていくのです。ある段階で後者の領域の方が優位になると、それまで強かった本人の意識による「緊張したい」という感覚が急速に薄れ、体全体が「体自身の意思」で機能するようになっていきます。こうした状態は「体が本人の意識に従わない」ということではなく、あくまで「不要な緊張が消える」というだけです。本人の意識が無自覚なまま体に対して「不要な緊張」を生み出してしまっている状態から「不要な緊張」が消えることで、体を動かさない時は理想的な弛緩状態となり、体を動かす時はより自身の思うようにスムーズに動く体となります。「意識と体の過剰な関係」が「正常な関係」に戻るということです。