探らないということ

 

 施術の手技は「物理的な刺激」ですが、実際にはそこに本人が意図する・しないに関わらず「意識」が介在しています。これは「同じ手技を行っていてもその効果は皆違う」ということを考えれば理解して貰えると思います。これは本人が意識していない場合なら、「その人が何を見ているか」の違いがそのまま手指の刺激に影響しますし、本人が意識しえない無意識の部分が影響を与えることもあります。実際にこうした人それぞれの手から生じる刺激の違いについては、いろんな要素がありすぎてとても説明しきれるものではありません。しかし本人が意図していなくてもそれが施術に悪影響を与えているケースは多々あります。こうした問題を解消するためには、その意識の干渉に一定の統制を行う必要が生じます。

 

 私たちの意識が施術において最も障害となるのは「体の内部を探る」という感覚です。私たちは仕事上、どうしても「体の内部がどうなっているか」を知りたいと思うものですが、これを体を触れた状態で実際に行ってしまうと、体の機能は著しく損なわれてしまいます。敏感な人が相手では実際に「探られている」という感覚をうけ、それだけで非常に深いになるものです。これについての説明には、よく目の機能の「見る」と「眺める」で説明します。これをカメラを例えると、「見る」というのは一眼レフと同じであり、「眺める」は使い捨てカメラと同じになります。

 

 一眼レフでは「ピントを合わせる」ことが必須ですが、ピントを合わせるということは特定の対象がハッキリ見える変わりに、それ以外の景色はぼやけるということです。これに対して使い捨てカメラというのは「景色全体にそこそこピントが合っている」というもので、いわば「全体を見ている状態」です。私たちがモノを見るということは「ピントを合わせる=一眼レフ」ことが当たり前と思われがちですが、これは「見たいものだけ見ている」ようなもので、自分ではちゃんと見ているつもりでも、実際は多くのものを見落としてることになります(自分から「見に行く」という感覚)。これに対して「眺める」という見方は「やってくる光をただ受け止める」というだけなので、目に入る全てが見えていることになります。人は「見る」という感覚では正しい情報を得られず、「眺める」という感覚でのみ正しい情報を得られるものです。

 

 これは施術でも同じことで、触れている限り(互いの体が繋がっている限り)、全ての体の情報は私たちの手に伝わってきているものです(これが「眺める」に相当します)。つまり手が受け取る情報を正しく理解できれば、そこから体の全ては把握できるということになります(あくまで理想ですが)。これを「探る」ことで自分から見に行ってしまうと、そこでは無意識に「自分の欲しい情報」「自分に分かりやすい情報」を選択しまうため、結果的に偏った情報しか手に入らないことになってしまいます。その上、「探る」という意識が無意識下で触れている手指に「探る動き」となって現れてしまうため、それがそのまま受け手の体に不要な変化を与えてしまうものです(敏感な人はこれを嫌がる)。つまりは「百害合って一理なし」なわけで、体の内部の動きは「見ようとすれば見えなくなる」ので、「手にやってくるもの」を理解することでしか正しくは得られないのだと考えて下さい。