全身を丸く使う

 

 まず、大和整體では施術の際に「姿勢を正す」ということを避けます。これは一般的な「正しい姿勢」というものには「体を固める」という要素が多分に含まれているためです。腰を落とす(膝を深く曲げる)というのは珍しくないとして、大和整體の施術では「背中を丸める」「脇を開く」「肘を深く曲げる」といった使い方を重視します。これらについては「全ての関節を中間位とする」という一言で説明できてしまいます。関節の中間位というのは、関節の遊びが大きくなるため体にとって最も力の入らない姿勢です。しかし、それは同時に「緊張=力むことができない姿勢」ということであり、そうした中では私たちの体が持つ「無意識の癖」も使うことができなくなります。全体的には「立禅」と似たようなものですが、「自分に楽な姿勢」ではなく「自分の癖が出ない姿勢」を優先することが「体を丸く使う」ことの意義です。

 

 関節というのは完全伸展位や完全屈曲位では緊張・安定しやすくなるため、施術において「力が入りやすい」という利点を持ちます(肘関節の伸展や手関節の背屈など)。しかし、これは同時に「局所の力」に頼ることになり、逆に全身の力を使いにくくなります。また特定の関節に強い緊張が生じると、そこでは「力の流れ」や「血液の循環」が遮られてしまいます。全身の主要な関節を中間位とし、体を丸く使う限りはそうしたことは起こらず、また全身を均等に使うことにも繋がり、施術動作の負担を全身に分散することができます。先にこうした姿勢からは「力が入らない」と説明しましたが、それは私たちの日常の動きが「局所の緊張・力み」に頼りすぎているためです。全身が均等であるなら、どんな動作も全身を使って行えばいいわけで、それに慣れさえすれば体を丸く使う状態からでも相応の力を用いることができます(実際にはこの姿勢からでも強い施術(正確な施術)を行うための「体の操法(術式の一)」があるのですが後述とします。

 

 自身の体が持つ「無意識の癖」を抑制するということには大きな意味があります。私たちの体は多くの歪みや動きの偏りを抱えているものですが、そのために自分が思っているほどには施術を正確に出来ていないものです。自分では「真っすぐに押している」つもりでも、そこに「引く」力が加わったり、「捻れ」が加わったりと、自身の気付かぬところで「施術効果の低下」や「体への悪影響」に繋がっているものです。これを分かりやすく伝えるために、よく勉強会で参加者に「触れる」ことの比較を行います。受け手の体をある人が触ると「緊張で固い」と感じるのに対して、私が一定の操法に沿って触ると「柔らかい」となるのです。体は誤った触れ方(施術の仕方)をされそうになると、触れられる前に瞬時に体を固めます。この場合は、施術者は施術者自身が作り出した緊張を「施術対象」と勘違いしてしまうわけです。しかし「体を丸く使う」ということは、自身の癖を抑制するだけでなく、自身の体の動きを客観的に制御しやすいという利点を持つので、自身の体から生じる悪影響を観察・修正していくことができます。

 

 ここで「一般的な正しい姿勢」と「体を丸く使う」ことの対比を、座禅になぞらえて説明しておきます。「座禅(中国禅宗)」の創始者は「達磨」で、その形は「正しい姿勢」に拘ったものです。ただし誰しも体にいろいろな不具合を抱えているわけで「誰しも頑張れば正しい姿勢になれる」というわけではありません。これに対して六台目の「慧能」は「姿勢を崩す(体が楽な状態を優先させる)」という立場をとりました。形よりも中身を優先したわけです。正しい姿勢というのは、自身の体が理想的に機能するようになれば誰でも自然にとる姿勢を指すのであり、最終的に行き着く「結果」なのだと思います。「体を丸く使う」というのも、この方が機能的に利点が多いからであり、その結果として体が正しく使えるようになると、結果的に「正しい姿勢」と言われる形に似通っていくことになります。最初から「正しい形」に拘るよりは、まず「中身」を充実させ、その中から「正しい姿勢」の本当の意味に気付いていければ、それが理想なのだと思います。