個の特異性 2

 

 大和整體では施術における施術者と患者さんとの立ち位置を、喫茶店などで座る際の「対面(向かい合って座る)」か「並び(並んで座る)」に対比して説明します。施術者が「治す側」、患者さんを「治される側」とすれば、これは「対面」となります。しかしこれを、患者さんを「治される側」、施術者を「理解したい側」と置き換えると「並び」となります。これは言って見れば「理解」と「共感」の違いです。対面で観察し、多くの情報からその人を理解しようとするのか、同じ立ち位置に立ってその人の感覚を共有しようとするのかの違いで、前者では客観的にその人を理解できる反面、理論的に整理できる範囲での理解となってしまうため、そうした経験が蓄積していくと、それはいずれ「類型化」に繋がります。これは病院である種の症状に「病名をつける」ことと同じだと考えて下さい。病名をつけることで曖昧な部分を理論的に整理することができます。

 

 これに対して後者では、その人の感覚を真似た場合、その感覚はその人独自のものであり、言語化できない漠然としたイメージに過ぎません。それを頭で理解・整理することはできませんが、体で体感しているため、感覚的には覚えていられます。この場合、せっかく「その人独自の感覚」を体感として経験しているのですから、それを敢えて「類型化」するようなことは必要ありません(もちろん似たような感覚の人に出会うことは多くあります)。感覚的に「こういう風に調子が悪いんだな」と感じることができれば、施術はその不快な感覚を消すためのものとなります。自身の理論や技術が先にあるわけではなく、感覚が先に来るのです。「どうすればこの不快な感覚を消せるだろうか?」と。もちろん、施従者の中にそうした感覚を直接消すことのできるような技術があるはずはなく、「そのために使えるとしたら…あれとあれかな?」といった曖昧な選択肢の中でしか施術を始めることができません。これが「受け身」の施術であり、「出てきたものを相手にする」ということです(慣れてくると患者さんの体を診た時点で同様の違和感が自分の中に生まれてしまい、それを消すために何が必要であるかを考えるようになる)。

 

 個の特異性には、目の前の患者さんの感覚を尊重するという意味も含まれます。施術者の事情でそれを類型化するような見方をせず、その人のオリジナルの感覚を理解すること。それによって、その人(体)のためだけの施術が成立することになります。大和は基本「何でも屋」ですから、相手の注文に合わせてそこに最適な仕事を選ぶだけです(ただその中にも無意識の好み=個性は現れてしまうものです)。もし自分から施術を選んで行いたければ、その人の感覚を理解(実感)した上で、それをよい方向へと変える幾つかの方法論が自身の中に見つかった場合に限られます(その場合は施術者側に一定の選択権が生まれる)。

 

 個の特異性は「その人のあり方を尊重すること」ですが、それが相手を理解しようとするあまりに主観的に捉えてしまうと「その人の感情的な部分まで理解しよう」となりがちです。その人を理解するために感覚を真似て共感・同調といったことまで行いますが、それは治すために必要な情報を収集するための手段です。それを理解したら、また施術者側の立場に戻り、「治す側」と「治される側」の線引きを行います。そこを間違えてしまうと、感覚を真似たがために相手に深く同調してしまい(相手の感覚に取り込まれてしまい)、「何としてもこの人を治してあげたい」といった感情的な施術に陥りかねません。患者さんの立場なら、誰でも共感はして欲しいとは思うでしょうが、そこで「感情的な施術(主観的な施術)」と「冷静な施術(客観的な施術)」のどちらかを選べと言われたら、後者を選ぶはずです(正しい判断を下しやすい方)。

 

 個の特異性の「その人のあり方を尊重すること」というのは、その人を理解し、共感することではありません(誰でも自分と合わない人というのはいるものです)。極論すれば、「目の前に自分とは全く違う人がいる」ということを正しく認識することが重要となるのです。そのためには「どう違うか」を体感的に理解しておいた方がいいのです(真似をしている時点で「よくこんなことやってられるな」などと客観的に観察する)。施術者が自身の価値観を前提に「いろんな人」を理解しようとするのには限りがあります。自分の価値観はそのままで、他人の価値観(感覚)を経験する。そうした中で「いろんな人がいるもんだな」と、自分とは違う多くの価値観があることを理解すれば、それでいいのだと思います。