個の特異性

 

 大和整體にはその個人の持つ独自性を尊重します。これを「個の特異性」と総称していますが、それは体の違い、考え方の違い、感じ方の違いなど、あらゆる違いに対して当てはまることです。分かりやすくいえば、ある患者さんに対して複数の施術者が接する場合、施術者によって見えるもの、行うことは全て違うことになります。施術者に個人の感覚がある以上、同じ人を見ててもそこで感じるものは違います。また施術においては、人は「自分ができること(好みとも言えます)」を前提に見てしまうものなので、個人が持っている技術によって見えるものが変わってしまうこともあります。よって、大和整體では「こういう患者さんにはこういう手技をする」という決まり事がありません。意味がないからです。

 

 また、患者さんとの関係性というのは、私なら私とその人の間に生じる関係性であり、これが他の人ではまた違ってしまうものです。患者さんが施術者によって微妙に話し方が変わるように、その施術者との間でしか感じ得ないものというのは多くあります。これを前提とすれば、施術というのは自分と相手の関係性の中で生まれる唯一無二のものです(同じ施術を他の人が行うことはできない)。そして、その瞬間のお互いの状態というのも唯一無二ですから、同じ施術は二度と成立しないということです。これを単なる理屈と捉えるか、感覚的な自由度と捉えるかは人それぞれでしょうが、大和整體はこうした関係性を元に施術が成立するものと考えています。そして大和の施術の基本が「受け身」であることの理由もここにあります。

 

 大和にとっての施術というのは「出てきたものを相手にする」ことだと思います。患者さんを目の前にして、視診なり触診なりでどういう状態にあるかを理解する。理解した上で施術の方向性を組み立てる。一般的にはそうした形で「施術」が成立します。この時、当然施術者の中には「自分が使用可能な療法(技術)」が念頭にあるわけで、施術内容は無意識にその療法で対応が可能な範囲内に絞られることになります(サッカーをしている人に「ボールを手で持つ」という意識がないように)。この時点で施術には「施術者側の事情」が多分に関与しているわけで、その上さらに、その療法なりの「治り方」や「施術の道筋」があれば、患者さんの体が向かう方向性まで限定されてしまうことになります。これでは「患者さんの個の特異性」を見ているとは言えなくなってしまいます(ただこうした方法論の方が一般的であり、それを悪いとは思いません/方法論の違いです)。

 

 これを全く逆の見方に置き換えると、まず無作為に患者さんを見ると「気になるところ」「目に付くところ」が出てきます。それはたいてい足関節であったり、特定の臓器であったりするわけですが、それがどう体の状態に関与しているのかを想定してみる。患者さんの身になってその不調を考えてみるわけです。例えば足首が悪いなら、それを真似てみて、全身がどういう感覚になるかを確かめてみる。特定の臓器を庇っているのなら、そこを庇う姿勢をとってどういう感じがするか体感してみる。最初のうちは「真似」がうまくできないので、なかなか患者さんの感覚もイメージしにくいものですが、真似がうまくなってくると「これは辛いぞ」と、ある程度は患者さんの感覚が体感的に理解できるようになります。もちろん、両者ではベースになっている身体感覚が違うので「同じように感じている」とはなりませんが、「うまく真似る」ということに意味があります。真似るということは、目の前にいる人の感覚を理解するための最初の入り口です。