体の予備動作 1

 

 予備動作は「動きの序列」の延長で、より愁訴の「直接の原因」に近い考え方です。例えば「首が右に回らない(回すと痛い)」といった人では、たいてい回りやすい方向には胸郭がよく連繋し、逆の動きには反応しないものです。簡単に言えば胸郭に左回旋の歪みがあれば、首は左を向きやすくなる代わりに、右を見来にくくなります。これは胸郭の運動軸が真っすぐ正面を基準に動いているのではなく、始めから左向きにズレているということです。本来ならば、本人が首を右左に向けようとした時点で、胸郭はその動きを誘導するように僅かな回旋の動きを行うものです。これが「予備動作」で、これは頸椎の動きが胸郭の補助を受けつつ成立しているということです。先のように「胸郭に左回旋の歪みがある」という場合では、頸部の左回旋についてはこの胸郭の補助を受けられるものの、右回旋の時には胸郭がうまく反応せず、胸郭の補助がない状態で回旋しなければならないので、その可動限界は低くなります。また頸部は胸郭の動きと相反する方向に動くことになるので、そこに本来は不要な緊張が生じ、痛みや違和感を感じやすくなります。

 

 そもそも「首が痛い」という時、大和整體では「首が悪い」という考え方はしません。体の痛みを単純に考えると、そこには二つの種類があります。一つは全身を正しく使えている状態の人が、全身でその疲労が限界に達したことから、その人の身体構造の中で最も弱い部分が壊れる、というケース(どんなに体が均等に使えていても「その人の体で弱い部分」は存在します)。もう一つは、全身を正しく使えない結果として、体の中に「動きにくい部位」と「それを補って過剰に動く部位」という偏りが生じ、「過剰に動く部位」への過剰な負担から体が壊れるというケースです。大抵の人の愁訴とは、この後者の状態から発生しているものです。慢性的に「首が痛い」という場合、ここでは「頸部に本来かかるべきでない負荷が集中したことによって壊れた」と考えます。そこで頸部に何らかの機能異常が生じていたとしても、それを施術によって改善することはありません。仮に施術で改善した結果としてそこに「機能的な余裕」が生じれば、またそこに新たな負荷が集中して壊れるだけのことです(壊れ方も次第に悪化していく)。そんなことを繰り返していたら、それこそ治るものも治らなくなってしまいます。

 

 そこでの考え方としては「自分の仕事を放棄して頸部に負荷をかけている部位はどこか?」となります。もちろん放棄した側にもそうせざるを得ない事情があってのことですが、そうした部位は単純に「動かない部位(動けない部位)」として見つけることが出来ます。例えば立って貰う、足踏みをして貰うといった動作の中で、全身のあちこちが動作に応じて動く中で、必ず動作に反応しない部位というのがあります。そうした部位は、事前に「何かを守る」という理由から緊張によって固まっているのであり、そのために動けない状態にあります(多くは内臓の問題)。こうした部位を動けるようにすることで、患部に集中している負荷を軽減させることができ、その結果として患部を自力回復ができる状態まで持ち込むのです。そもそも「寝ても治らない」という時点で、その痛みの背景に「過剰な負荷がかかっている」ことを疑うべきだと思います。この場合、壊れた患部はいわば「被害者」です。これを「患部に問題がある」としてそれを正すというのは、いわば「容疑者」扱いであり、意味が全く正反対になってしまいます。こうした考え方は大和整體の全ての施術に共通であり、愁訴というものの扱いの基本となるものです。