頭を庇う動き

 

 施術によって体の働きを整えるという時、その目標となるべき「理想の体」のイメージを明確に持つことは重要です。明確な目標なく施術を行えば体の反応は無軌道になりやすく、目標が明確であれば(それがより高い機能を発揮できるイメージである程)、体の反応も高まるためです。これはよく「知らないことは出来ない」と説明するのですが、施術者は自分のイメージを越えた体を作ることはできません。仮に、偶発的にそうした変化を引き起こすことができたとしても、それを安定させる術を知らないためです。大和整體では体がより自然な働きを発揮できる状態、その例として「野生動物」や「幼い子供」を取り上げることが多いのですが、ここでは理想の体のイメージを「幼い子供(その機能)」としておきます。幼い子供という表現は曖昧ですが、そこには私たち大人が失ってしまっている多くの機能があります。

 

 幼い子供の体の特徴といえば、まず「体の柔らかさ」となりますが、その背景にあるのは体の動かし方の違いです。体を動かす時、幼い子供が「常に全身を使う」のに対して、私たち大人は「必要な部分のみ動かそう」とします。幼い子供は力がないせいもありますが、どんな動作にも全身を使います。これは私たち大人には無駄が多いように見えても、実際には「全身を均等に使う」ことで、常に動作の負担を全身に分散させ、かつ全身を均等に活性化させていることに繋がります。それに比べれば、私たち大人の動きには偏りが大きく、部位によって「活性しやすい部位・しにくい部位」「疲労が溜まりやすい部位・溜まりにくい部位」の偏りが著しいものです(こうした積み重ねが愁訴や病気へと繋がる)。

 

 この違いが最も具体的に現れるのは大人の「頭を庇う動き」です。私たち大人は無意識に頭部を「守るべきもの」と捉えているため、動作の際にとかく頭を動かすことを嫌います。しかし幼い子供でも野生動物でも「頭部」というのは四肢と同じく便利な「道具」であり、そこに「守る」という意識はありません。全身の全てが「等価」であり、必要に応じて無駄の少ない動きを構築するだけです。これに対して頭部を守ることを前提に組み立てられる私たちの体の動きは、当然そこに不自然さが伴います。全身を均一に使うことができず、体の動きからは「自然な流れ」が損なわれてしまうのです。こうした問題について、大和整體では「四肢」に頭部も加えた「五肢」という表現を用います。手足と同じく頭部もその状況に応じて自然に使うことができなければ、本来の体の働きには繋がらないためです。

 

 しかし私たち大人にとって、「頭部を(自然に)使う」というのは簡単ではありません。たいていの人では、体の動きの全てが「頭部を守る」ことを前提に組み立てられているため、これを変えることができないのです(体の動きを根本から変えなければならない)。頭部を守ることによって行われる体の動きは、まず頭部を守るために固め、その上で体を自由にするという「頭と体の分離」という状態です。これは体を動かす際に「頭部の状態(安全確保)」が優先され、体はそれを踏まえて動くという主従の関係であるといえます(頭>体)。この関係を本来の「等価」に戻すためには「頭部の働きを弱める」か「体の働きを強める」ことで、両者の間にある差をなくしていくことが必要です。ここで重要な意味を持つのが「肚」という概念です。一般的に「丹田」といわれる部位をここでは具体的に「小腸の働き」としておきますが、人の体は「頭部中心で動くか(交感神経優位)」「腹部中心で動くか(副交感神経優位)」のいずれかでしか動きません。これはその見た目が酷似している「脳」と「小腸」に置き換えることができます(小腸はその毛細血管の豊富さから多量の血液を貯留することができる)。どちらが体の主体として働くかによって、そこから起こる動きも全く変わったものとなってしまいます。