全身の感覚を均一化する

 

 私たちの体には、その動きの偏り(誤り)に加えて「感覚の偏り(誤り)」も存在しています。よく施術者の中でも「感覚が鈍い」「感覚が鋭い」という個人差はありますが、「感覚が鋭い」という人の多くは過敏であり、局部的な感覚の鋭さに秀でているのが普通です。正しい感覚というのは全身で等しく感じるべきもので、そのためにも先の強圧に伴う「全身の筋肉の張力の均一化」は重視すべき事柄です。これをここでは「全身の血液循環の均一化」と置き換えますが、これが均一であれば全身の機能は等しく活性化するわけで、自身の体の働きを普段よりも強く実感できていることになります。まず自分の体の働きを正しく感じていることで、周囲の情報や状況に惑わされない安定状態がつくり、これを前提として「自身の体を感じつつ周囲の情報を感じとる」というのが「正しい感覚」のあり方だと思います。感覚ばかりを鋭くして自分の体の感覚が消え去ってしまうというのは、偏った感覚である上に、その感覚によって自身の体が簡単に影響を受けてしまうという危険性を備えているのです(敏感な人ほど体が簡単に壊れやすい)。

 

 本来、何かを感じる「感覚」というのは、施術者側から求めるものではなく、受け止めるべきものです(自然に体で感じたもののみ受け止める→自ら探すのではない)。これを自らから「探しにいく」となってしまえば、それは無意識に「施術者が欲しい情報」を探してしまうことになり、情報全体そのものを素直に受け止めることには繋がりません。これに対して「感じる」ということが「やってくるものを待つ(受け止める)」という意識であれば、それは全ての情報を受け止めるということであり、それを理解できるか出来ないかは別として、多くの情報を均等に得ることが出来ます。仮に人の体を触れて得られる情報なら、それを「受け止める」という感覚で得た場合、その大部分は施術者自身が認識できない曖昧かつ膨大なものです。先にも書いたように、これを「理解」できるようになるためには、そうした感覚の蓄積(経験値)に頼るしかないわけで、分からないものを無理に理解する必要はありません。

 

 施術は人を治すために行うものですが、それを長年継続していくことが結果として自身の体調を悪くするのでは意味がありません。施術はそれが正しく行われれば、積み重ねていくことで必ず自身の体をも正しく機能させてくれるものでなければならず、そうした身体機能の向上が背景にあるからこそ、それに伴う技術の進歩が期待できるわけです。これは整体の施術に限らず、武術や茶道・華道といった「型」を長年かけて体にしみ込ませていくような習い事では等しく共通で、長く続けた結果として通常では手に入らない「体の正しい動き(自然な動き)」が身に付くものでなければいけません。治る・治らないという結果も、最終的には「自然な動き」ができるようになれば、それだけで簡単な施術から通常では考えられないような効果が得られるようになるわけで、「技術」というのはあくまでそこに至るための方法論・道筋でしかありません。