恒常性からの変化


 

 交感神経の働きを抑制することの難しさは、体が持つ「恒常性」にあります。人の体というのは「大きな変化」を嫌います。体が安定して活動するためには日常の生活の中で経験的に作られた「緊張と弛緩の幅」というものがあり、その範囲内で機能するようにできます(体の恒常性)。忙しい人は忙しいなりの緊張と弛緩を、のんびりしている人はのんびりなりの緊張と弛緩を行っているものです。これはよくバイオリズムを示す波線と同じようなもので、緊張と弛緩が一定の幅(自律神経の活動の幅)の範囲内で上下し、体の機能がその範囲内にある限りにおいて、私たちは心身に負担のない安定した日常を送ることができています。ここに「急激な緊張(ショックな出来事)」や「急激な弛緩(長時間の睡眠など)」が起こると、体の機能は一時的に不安定となってしまいますが、ほとんどの場合は時間の経過とともに元の状態へと戻っていくものです。こうした恒常性の中で安定を保っている体(脳)にとっては「緊張を一段階弛める」ということは「既存の恒常性のバランスを壊される」ことと同じ意味となります。そのため、意図的にそうした施術を行おうとすれば、体はそれに対して全力で抵抗をします。また、仮にそれを達成できたらできたで、体は著しく不安定な状態になるので、その扱いが非常に難しくなります。

 

 こうした段階を踏んだ体の変化について、ここではその仕組みを数字を使って説明していきます。ある人の体の状態(善し悪し)を二桁の数字で表すとして、ここではそれを「55」としたとします(数字が小さい方が健康で大きいほど悪い)。この人の安定状態は「50番台」という範囲の中にあると考えて下さい。この場合、この人は「50〜59」という範囲内で自分の体の好不調を感じていることになります(真ん中辺りが先の「踊り場」に相当)。この人が多忙で無理を重ねればある時に「59」を越えて、より機能が制限される「60番台」で活動する体になるでしょうが、逆に機能が向上する上の「40番台」へ進むことはまずありません。下へさがるには無理を重ねるだけで行けるのですが、上へとあがるには体全体の機能を向上させるための膨大なエネルギー(余力)が必要になるからです。上の段階に進むために必要なことは「50番台」の人ならその中で最良の状態である「50」の状態を持続することです。最も好調である状態が維持されるということは、そこに「余力」が生じて体力を蓄えることができます。持続によって「変化に必要な体力」が蓄えられると、その時点で体は自ら新しい状態へと移行を始めます。ただし「真ん中辺りが踊り場」と説明したように、そうした状態を自力で維持するのは難しいことなので、施術を通じて維持させる。

 

 しかし、仮に50番台にあった人が40番台に上がったとしても最初は「49(40番台で最悪の状態)」になるわけで、この時の体の状態は不安定極まりない状態となります。これは「50番台の身体感覚」から「40番台の身体感覚」へと移行するためのいわば「生みの苦しみ」のようなもので、それを経験することで自身の体に「新しい感覚」として定着させなければなりません。しかし実際には、こうした状況に至ってもうまく先へ進める人というのは稀なので、大抵は新しい段階に体が定着できるよう施術による補助が必要です。とはいえ、こうした不安定な状態の体に、安易に愁訴を改善しようとするような施術を行ってしまえば全ては台無しです。その段階で起こるべき症状・起こってはいけない症状を見極め、施術は「変化に不要なもの」を排除するに留めなければなりません。つまり大和整體の施術は「変化を引き起こすための施術(準備)」と「変化を速やかに経過させるための施術」の二つから構成されており、それぞれが一般的な施術とは目的を異にするということです。

 

 人の体は自身の心身が無理なく活動のできる範囲の中で「安定」を保っているものです。しかしその安定の中では治らないものも多くあるわけで、それを治すためには敢えてその安定から脱する必要があります。これはよく「階段の踊り場」を例に説明するのですが、踊り場という安定状態を出たら、そこにあるのは不安定な「階段」です(よい方向に行くにも悪い方向に行くにも階段がある)。そして体というものはこの「踊り場」を出たがらないものです。それを敢えて踊り場から階段へ突き出す施術が「壊す施術」であり、不安定な階段にあっては必要な不調は経験させ、不必要な不調は排除する「誘導としての施術」を行い、次の「踊り場」まで行き着かせます。こうしたことを繰り返した先に「体本来の自然な機能」や「子供のような自然な機能」があるわけで、そこに行き着くための方法論に特化しているのが大和整體の施術なのです。