既存のバランスを壊す


 

 体は「生きて」います。その中では日々いろいろな変化が起こるので、痛みもそうした変化の一過程と考えることができます。体をよく使っている人ほどこうした意識は強く、体に痛みが生じてもそれを「過程」と捉えて観察する余裕を持ちます。痛みそれ自体は大きな問題ではありません。問題はその痛みが「停滞」することで、全身の活動がある状態に停滞し、痛みの状態が固定されてしまうことにあります。本来なら睡眠などの休息によって回復(治癒)するはずの一時的な愁訴が、体の停滞によって充分な回復が得られない状態となることで、一般的な意味での「愁訴」が成立することになります。いわば体が不活性な状態にあることで愁訴が定着してしまうのであれば、それを本来の活性化の状態に戻すことで、すぐに愁訴が消えはしないとしても回復・治癒には進むはずです。そのきっかけとして大和整體の「既存のバランスを壊す」という施術が存在します。

 

 施術によって「既存のバランスを壊す」には別の理由もあります。これは「壊す」という感覚で施術を行えばすぐに気付くことですが、体が新しいバランスを構築しようとする時にはいろいろな変化が出ます。それも通常の「治す」という感覚ではおよそ経験できないような変化ばかりです。そもそも、体を既存のバランスの中で整えようとすれば、そこで起こる反応は体の機能の統合を前提とした、いわば「抑制系の反応」となります。しかし壊すつもりで行うと、それは現在の体が使っていない潜在的な機能を引き出す、いわば「拡張系の反応」となります。施術によって体がどう変化するか(体がどういう仕組みで動いているのか)を知るという点で、治すよりは壊す施術の方が得られる情報の量は圧倒的に多くなるのです。その中で、体の緊張がどういう経緯、パターンで変化していくかを経験し、それを蓄積していくことは、体というものの機能を体感的に理解することに繋がります。体を解剖学などの頭で覚えた「先入観」で捉えるのではなく、実際の反応を追うことで「生きた体の仕組み」を感覚的に覚えて貰うのです。その結果として、どの部位を、どういう順序で解除していけば目的としている体の変化が得られるかも自然に分かるようになります。

 

 ただし「壊す」といっても、それは既存のバランスを崩すためであり、そこには「加減」が重要となります(本当に壊してしまっては元も子もない)。治そうとする施術は目的とする機能が回復すればそれで終わりですが、壊す施術の場合は「壊し方」で体が如何様にも変化します。工業学校などで精密機械の扱いを覚えさせる最初の架台は「分解」です。分解することでその機械の仕組みを体感的に覚えるのですが、大和整體では体も同じと考えます。いまの体の活動状態の結果・延長として愁訴が起こっているなら、その活動状態(その仕組みそのもの)を変える必要があります。そのためには既存のバランスを一度壊して、新しいバランスへと移行させればいいわけで、そこに「壊し方の上手い下手」があるわけです。実際に先々の施術では「分解」に特化した施術(術式二)を扱いますが、「壊し方を知っているからこそ治し方が分かる」というのが大和整體の基本の施術観です。そして、壊し方に熟知した頃には体の仕組みを経験的に理解できている筈なので、「治す」「整える」というのはそこから先の話となります。最終的には「壊す」ことなく体を整えていくことを理想としますが、それは「壊す」を熟知した後に可能になることだと考えているのです。