大変化と小変化


 

 「小変化」や「大変化」など、体の機能が大きく変化するというのは一見して「よいこと」に思われそうですが、そもそも体というのは大きな変化を嫌うものです。誰しも根底の部分が変わらずに、表層の部分で大きな変化が起こることは受け入れることができますが、根底からの変化というのは否定するものです。しかし愁訴や疾病が体の「現状の機能」の中で治らない限りは、その状態を逸脱して「一つ上の機能」まで回復・成長しなければなりません。こうした変化は「恒常性そのものの変化」であり、変化に際して心身に多大な負担を強いることになります。故にこうした変化が日常の中で起こることはまずありません。仮にその変化の過程(転換期)に入ったとしても、その負担に耐えきれずに元に戻ってしまうものです。これはいわば「越えにくい壁」のようなもので、大和整體の施術はそうした壁をいかに危険を最小にし、速やかに越えさせるかにあるといえます。

 

 この「大変化」によって起こる体の大きな変化(転換期)について、私はよく「車の買い替え」と説明しています。誰しも変化する時には、自分の中の「いい部分」は残したまま、「悪い部分」だけ変わりたいと願うものです。しかし「変化」というのはその全てが変わるからの変化なのであり、それは手元にあった車がなくなり、見ず知らずの全く新しい車が手元に届くのとよく似ています。自身を構築していた心身の状態が根底から変わるというのは「恐い」以外の何者でもなく、多くの人にとってみれば、決して「楽」と言えるものではありません。またこうした過程ではそれまで感じていなかった愁訴(潜在的に持っていた愁訴)が吹き出すことになり、施術をする側にも扱いが難しい状態となります。ここで誤って目の前の愁訴に囚われ、普通にそれらを改善しようとしてしまえば、それは体の自然な反応を妨げる「邪魔な刺激」となり、せっかくの変化を留めてしまいます。

 

 どの段階の転換期ではどういう症状が現れるのか? またどういう症状が現れてはいけないのか? どこまで手出しをして良く、何をしてはいけないのか? こうした知識を備え、いかに速やかに「転換期」を経過させるかの見極めこそが「治させる施術」に必要な技術です。また、準備としての小変化の段階でも決まり事は多くあります。通常の施術は「治したい部位」を治せばよいのですが、どんな愁訴・疾病にも「治る時期(治る段階)」があります。その時期・段階に達していない状況で施術を行っても意味はなく、それが治る時期・段階を待たねばなりません(またはそうなるようしむける)。「治したいように治す」のではなく「体自身がどういう方向に進みたがっているか」を見定め、その補助に徹することで「小変化」が得られ、その積み重ねによって「大変化」が得られることになります(更にその大変化をも積み重ねていく)。

 

 そもそも大和整體は一部の武家に伝わっていたもので、その目的は「当主または後継者を生かす」というごく限られたところにありました。これは言い換えれば「多くの人を治す」のではなく「一人の人を確実に治す」ための術です。一口に「人の体を変える」といっても、それは簡単なことではありません。意識と体が密接に結びついている以上、簡単には変われないのが「人」です。それを本当に変えようとするなら、変わるための「段階」を順に踏んでいかなければならず、かつ各段階に至るための「下準備」が必要になります。そしていざ体が変わる時期(転換期)が来たら、余計な手出しをすることなく、速やかに変化を経過させる。これが長期戦を旨とする「治させる施術」の真意であり、「治す施術」との決定的な相違点です。必要なのは、劇的な効果を得ることのできる「高い技術」ではなく、体を長期的に観察し、その都度の判断を決して間違わないことです。