体に治させる施術 1


 

 大和整體の施術の特徴は「体自身に治させる」ことにあります。これは言い換えれば「体自身が治せるようになるための必要条件を揃える」ということです。体の間違った機能を正し、失われてしまっている機能・感覚を回復させることができれば、大抵の愁訴は自然治癒によって治ります。ただし、そこにはよくある「○○さえよくなれば体は治る」といった考え方は存在せず、必要に応じて必要な施術を行うことで成立します。あらかじめ用途の決められたテクニックを用いるのではなく、体に合わせて柔軟な施術を行うのみです。そこに素晴らしいテクニックの集積のような「スマートな施術」は必要なく、ただその都度必要なことを行う「何でも屋」といった施術であればよいと考えます。

 

 施術はそれが「治す」という考えである場合、主導権は施術者側にあります(トップダウン的な施術)。そして「治させる」という場合は主導権は受け手側にあることになります(ボトムアップ的な施術)。最終的に体を治すための一切の反応を行うのが「体自身」である限り、施術の主導権を受け手の体自身に委ね、施術者は観察と対処に徹するのが大和整體の「受け身」の施術です。施術者側に主導権があり、体の方向性を決める限りはその可能性には限りがありますが、体自身に主導権がある場合は、その可能性に限りはありません(前者では施術者の理想のイメージが反応の上限であり後者にはそれがない)。「治される」のではなく、自身で「治せる状態になる」ということを重ねていく。その結果として体が正しい方向に「成長」していくことが理想であり、施術はその手助けに過ぎません。

 

 昨今のは治療というのはその殆どが「治す(愁訴・疾病の解消)」ことを目的とし、体本来の機能を引き出そうとする考えはすっかり見かけなくなりました(言葉上はそう謳っていることは多くとも)。愁訴や疾病というのは、そのほとんどの背景に「私たち(現代人)の体を使う意識の稚拙さ」が関係しています。これは言い換えれば「壊れるような使い方をしている」からこそ壊れたということです。しかし私たちは誰かに「正しい体の使い方」を教わって育つわけではないので、成長過程で多くの誤りを積み重ね、その結果として、そもそも初めから「壊れやすい体」を抱えているようなものです。これを前提とすれば、「治す」という考え方は、体が壊れた時にその壊れた部分を修復しようとする「原状回復」に相当します。「治させる」という考え方は、壊れやすい構造そのものを改善しようとする「全修理/オーバーホール」に相当します。当然どちらも必要ですが、後者の立場をとる治療者は少なくなったものです。

 

 当たり前のことですが、体の仕組みというのは至極複雑です。とての人の思考程度で理解が及ぶものではありません(表面的な機能のみを取り扱うなら別ですが)。そうした体に対しては、身体機能に一定の反応を強いる「治す」という施術ではなく、全てにおいて「体に合わせる(治させる)」という立場をとることで、その仕組みを理解するには至らずとも、そこに反発なく協力することができるのだと思います。体を理論的に理解しようとするのではなく、初めから「理解の及ばないもの」として扱うことで、体の複雑かつ繊細なさまざまな反応を楽しみながら施術をしていくのが大和整體の施術のあり方です(頭で理解する必要はなく感覚的な経験的を積み重ねることで自然に体に合わせることができることが理想)。